国王軍との和平
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カトリック同盟は自らの名分として「神のため、王のため」立ったとした。したがって国王軍との和解・協力は既定の路線になるはずであったが、国王派の中にはカトリックを快く思わない者も少なからず存在しており、同盟側にも国王を敵視する勢力があり、交渉は難航をきわめた。 当初チャールズ1世はカトリック同盟を敵視せざるを得なかった。国王派は国教会に与しており、カトリックを嫌う者も多かったためである。そのため一時はアイルランドに兵を差し向けたが、議会軍との戦闘が始まると、アイルランドどころではなくなり和平に傾いた。チャールズ1世の委任を受けてカトリック同盟と交渉に当たったのはアイルランド軍司令官で反乱鎮圧に当たったオーモンド侯ジェームズ・バトラーで、アイルランド貴族でありながらステュアート朝にプロテスタントとして養育され、ストラフォード伯の下で従軍したこともある経験と、カトリック同盟にも旧知の縁者が多い人脈を買われた。1643年9月15日に両者はまず休戦、続いて11月13日にアイルランド総督に任命されたオーモンド侯とカトリック同盟は和平交渉に取り組んだ。 しかし和平交渉はようやく1644年に始まったものの両者の要求が紛糾して進まなかった。特に国王側はカトリック教会の財産保持を認めず国教会へ返還するよう要求したが、聖職者の影響力が強いカトリック同盟には応じられるものではなかった。カトリック同盟もカトリック刑罰法撤廃を要求、双方の要求は実現が難しいため暗礁に乗り上げた。チャールズ1世の介入もあって話はややこしくなり、グラモーガン伯エドワード・サマセットはチャールズ1世の密使としてアイルランドへ行き、1645年7月に到着するとオーモンド侯を出し抜きカトリック同盟と軍事援助の秘密条約を結ぶことを画策した。さらに悪いことに、同年11月にアイルランドに赴任したローマ教皇インノケンティウス10世の特使ジョヴァンニ・バッティスタ・リヌチーニ(英語版)はアイルランドに対抗宗教改革を実現することを望む強硬派で、カトリック同盟とオーモンド侯の交渉に反対、グラモーガン伯に接触しながらもそれぞれの交渉を破棄することを計画、和平交渉が決裂する危険が高まった。 カトリック同盟とオーモンド侯の交渉が加速するのは1646年3月に国王軍の拠点チェスターが陥落してからのことである。3月28日にそれぞれの要求を先送りする形で和平条約に調印したが、この条約は遅きに失した。勝利をおさめつつある議会軍はカトリックを敵視していたからである。一方のグラモーガン伯は秘密条約締結に失敗しオーモンド侯に逮捕されたが、条約調印をめぐってカトリック同盟内で抗争がおこり、リヌチーニに扇動されたオーウェンら軍人と聖職者を中心とした反対派が反乱を起こし、条約賛成派が投獄されるという事件も起こった。リヌチーニが主導権を握ったカトリック同盟は条約を破棄したが、やがてリヌチーニは独裁を批判され失脚、条約賛成派が復帰し改めて1649年1月にオーモンド侯と和平条約を結んだ(リヌチーニは2月にアイルランドを離れた)。条約内容は最初の頃と変わらないため、外部の人間が招いた無用な混乱で3年も無駄な時間が過ぎたことになるが、そうこうしているうちにチャールズ1世は断頭台の露と消え、クロムウェル率いる共和政府軍が迫ってきていた。
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