国王選出前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 05:22 UTC 版)
「イジー (ボヘミア王)」の記事における「国王選出前」の解説
イジーはボヘミアの貴族ヴィクトリン・ス・クンシュタート・ア・ポジェブラト(チェコ語版)の息子として生まれた。父はフス戦争を起こしたフス派のうち、穏健派であるウトラキストの指導者の1人だった。14歳の時、イジーはフス派内の急進派であるターボル派の没落を招いたリパニーの戦いに参加した。成人したイジーはフス派の指導者の1人として、神聖ローマ皇帝ジギスムントからボヘミア、ハンガリー、ローマ王位を引き継いだ婿のアルブレヒト2世の率いるオーストリアの軍勢に勝利した。イジーはすぐにフス派内で頭角をあらわし、プタテク・ス・ピルクシュテインの死後はその頭領となった。 アルブレヒト2世の後を継いだ息子ラディスラウス・ポストゥムスの治世、ボヘミア国内はオルジフ2世・ズ・ロジュンベルカ率いるローマ忠誠派と、イジー率いるフス派とに二分された状態だった。和解の試みが何度もなされた後、イジーは軍事的解決しかないと考えた。そこでフス派の牙城であり、自らの一族が先祖代々本拠とするリティツェの城のあるボヘミア北東部で、徐々に武装した軍隊を組織していった。1448年、イジーは9000の強兵からなる自軍をクトナー・ホラから首都プラハまで進軍させ、ほぼ何の抵抗も受けずに首都を掌握した。 結局内戦が勃発したものの、イジーは上手くローマ忠誠派の貴族達を敗北に追い込んだ。1451年、幼いラディスラウス・ポストゥムスの後見人を務める皇帝フリードリヒ3世は、イジーにボヘミアの行政権を一任することを決めた。同年、プラハで招集された議会はイジーに摂政の地位を差し出した。
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