国憲起草への動き
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1876年(明治9年)9月6日、明治天皇は「元老院議長有栖川宮熾仁親王へ国憲起草を命ずるの勅語」を発し、各国憲法を研究して憲法草案を起草せよと命じた。 朕爰(ここ)ニ我カ建國ノ體ニ基キ廣ク海外各國ノ成法ヲ斟酌シ以テ國憲ヲ定メントス汝等ソレ宜シク之カ草按ヲ起創シ以テ聞(ぶん)セヨ朕將ニ之ヲ撰ハントス — 国憲起草を命ずるの勅語 元老院はこの諮問に応え、憲法取調局を設置し、同時に明法寮・司法省法学校やボアソナードらを中心に、治罪法(刑事訴訟法)や民法、共通法などの構築作業がフランスやベルギーの大陸法を基盤に置いて展開された。 これに対し、英語・ドイツ語圏の側は、1877年に日本赤十字社前身の博愛社を設立し、また駐ドイツ帝国公使青木周蔵は1878年10月、ドイツ人ヘルマン・ロエスレル(ロェスラー、Karl Friedrich Hermann Roesler)を日本に送り込むという動きを見せた。 1880年(明治13年)、元老院は「日本国国憲按」を成案として提出し、また、大蔵卿・大隈重信も「憲法意見」を提出した。しかし日本国国憲按は皇帝の国憲遵守の誓約や議会の強権を定めるなど、ベルギー憲法(1831年)やドイツ帝国統一前のプロイセン王国憲法(1850年)の影響を強く受けていたことから岩倉具視・伊藤博文らの反対に遭い、大隈の意見もまた採択されるに至らなかった。岩倉具視も天皇に意見書を奏上した。 1881年(明治14年)8月31日、伊藤博文を中心とする勢力は明治十四年の政変によって大隈重信を罷免し、その直後に御前会議を開いて国会開設を決定した。9月18日には主だった官僚や政治家をメンバーとする国策機関独逸学協会(Verein für die deutschen Wissenschaften, Society for German Sciences)を設立し、ドイツ帝国式立憲主義推進の立場を強めた。この協会には法律家のみならずドイツ人造船技術者レーマンなども参加していた。 その結果、10月12日に次のような「国会開設の勅諭」が発された。この勅諭では、第1に、1890年(明治23年)の国会(議会)開設を約束し、第2に、その組織や権限は政府に決めさせること(欽定憲法)を示し、第3に、これ以上の議論を止める政治休戦を説き、第四に内乱を企てる者は処罰すると警告している。この勅諭を発することにより、ドイツ勢力は政局の主導権を取った。
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