国内での地位確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 08:45 UTC 版)
「シドニー・ノーラン」の記事における「国内での地位確立」の解説
ノーランは、当時芸術家のパトロンとして知られていたジョンとサンディ・リード夫妻と親しくなり、新進芸術家集団である「ハイディ・サークル」の主要メンバーの一人と見なされるようになっていった。1938年に彼は最初の妻エリザベスと結婚したが、リード夫妻との関係、芸術家としての活動が活発化するにつれ、この結婚は3年で破綻した。1940年に最初の個展を開催するが、これは惨憺たる評価に終わった。1942年には陸軍に招集され、ビクトリア州北部のウィメラ地区に配属された。この時期すでに彼の画風は抽象から具象へと方向転換しつつあったが、この移住により大都市メルボルンの空気から遠ざかることでその傾向はさらに加速され、ノーランはヨーロッパの抽象画とは距離を置いた「オーストラリアの画家」としてのアイデンティティーを模索する過程に入っていった。 除隊の後、メルボルンに戻ると、ジョン・リードとマックス・ハリス(作家、詩人)の出版社の仕事にも参加し、文芸誌『アングリー・ペンギンズ』などの表紙を手がけた。1946年、ハリスとともにビクトリア州北東部を旅行し、オーストラリア最大のブッシュレンジャーであるネッド・ケリーの生涯にインスピレーションを得、『ケリー追跡大作戦(1878年 – 1880年)』を主題とする一連のシリーズを描き上げた。オーストラリアで大衆的人気のあるケリーを扱ったこれら作品は、今日までノーランの作品群の中でも著名なものとして知られている。 これ以降、旅行は彼のインスピレーションの主要な源泉となり、1947年にはグレート・バリア・リーフやクイーンズランド、フレーザー島などを回って一年を過ごした。『フレーザー夫人と脱獄囚ブレースフェル』などの作品はその成果である。1949年にはオーストラリア中央部を旅して、探検家バークとウィルスのオーストラリア南北縦断の探検に主題を取った作品を作成した。 なお、1948年に、二度目の妻シンシアと結婚している。
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