唄が広まる経緯とは? わかりやすく解説

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唄が広まる経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 16:44 UTC 版)

「竹田の子守唄」記事における「唄が広まる経緯」の解説

1964年12月(または1965年1月)、東京芸術座公演し労演主催舞台作品である住井すゑ原作の『橋のない川』で、尾上和彦が多泉和人(おおいずみ かずと)のペンネーム音楽手掛けることになり、主題即した曲を使おうとしたが、尾上部落問題肌で感じることができておらず、実感を得るため、別の仕事訪れたことのあった被差別部落一つ京都市伏見区竹田地区にある部落解放同盟合唱団「はだしの子メンバー1人母親から、情緒たっぷりどころかカラっと明るく唄って教えてもらった民謡編曲し使ったのである尾上採集したのがたまたま竹田地区であったため『竹田の子守唄』とされたが、それ以前題名付いていなかった。きちんとした楽譜もなく、1番と2番テンポ違った唄は、子守り奉公苦労する中にも強く暖かい人間性内在させ、『赤いサラファン』に共通する部分感じられ聞かせてもらった女性の唄を尾上解体してつくったのが今日知られる旋律である。唄の後半に『ロンドンデリーの歌のような、非常に豊かな音の広がり加えた4分の2拍子書き上げたが、発表後複数関西研究者が「この唄は自分採譜した」と主張、これについて尾上は、唄を聞かせた女性その後人前披露することはなく、彼女の唄は発表されたものよりテンポ速い16分音符なければならない否定している。 それが合唱団レパートリーとなったことで、当時フォークソング歌手たちにも広まり、その一人が後の赤い鳥後藤悦治であった後藤は、関西フォーク定例コンサート大阪労音例会」で、大塚孝彦と高田恭子デュエット歌唱しているのを聴き本作初め知って感銘を受ける後藤はフーツエミールというグループのリーダーだったが、レパートリー英語の歌ばかりなことに不満を抱いており、後藤はこの曲に触れたことでフーツエミールを解散し赤い鳥を新結成するに至る。赤い鳥結成時持ち歌が他に『カム・アンド・ゴー・ウィズ・ミー』しかなかったが、後藤本作練習には力を入れるほど心から惚れ込みデビュー作としてシングルレコード発売結成7か月後の1969年11月第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト本作歌唱してグランプリ飾ったフォークシンガーたちに広まる前に歌唱していた合唱団「麦」では、唄が被差別部落のものである紹介していたが、フォーク界に広まるにつれて竹田」の正し読み方や唄の出所はわからなくなっていった。赤い鳥当初唄の由来や意味も理解しておらず、題名地名大分県竹田市のことだと思っていた。

※この「唄が広まる経緯」の解説は、「竹田の子守唄」の解説の一部です。
「唄が広まる経緯」を含む「竹田の子守唄」の記事については、「竹田の子守唄」の概要を参照ください。

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