唄の由来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/09/13 17:57 UTC 版)
明治、大正期にうわさ歌として周辺集落でうたわれ始めた歌であるが、かんつめの死後何年か後に名柄の屋宮太吉なる人物が、この悲話をかんつめが生前愛唱していた労働歌「草彅節」(飯米取り節系統)にのせたという(酒井正子の説によれば薩摩藩の役所の要職を務めてきた家柄の屋宮嘉起。かんつめの主家ではなかったが、かんつめの悲劇と同じ頃に失脚し、家や集落の安寧を願うために鎮魂を歌ったとされる)説がある。 かんつめの墓跡と伝えられる場所や主家の親類筋は現在まで残っており、研究者の間でもかんつめの実在に異論はない。しかしながら、唄はウワサ歌としての性質を持ち、実在の事件は脚色されていったとみられ異説が多く、かんつめは怠け者だったともいわれる。中には自殺したかんつめの霊といつも通りに唄掛けをして「あかす夜(ゆ)やくれて汝(な)きゃ夜や明けり、果報せつぬありば また見きょろ」(わたしども後生の夜は暮れて、あなたがたの夜は明けました。よき時節になれば、またお目にかかります)と歌われてぞっとした岩加那が上を見るとかんつめの縊死体があったという怪奇的なバリエーションもある。
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