和漢混淆文の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 05:59 UTC 版)
平安時代までは、朝廷で用いる公の書き言葉は漢文であった。これはベトナム・朝鮮半島などと同様である。当初漢文は中国語音で読まれたとみられるが、日本語と中国語の音韻体系は相違が大きいため、この方法はやがて廃れ、日本語の文法・語彙を当てはめて訓読されるようになった。いわば、漢文を日本語に直訳しながら読むものであった。 漢文訓読の習慣に伴い、漢文に日本語特有の「賜」(…たまふ)や「坐」(…ます)のような語句を混ぜたり、一部を日本語の語順で記したりした「和化漢文」というべきものが生じた(6世紀の法隆寺薬師仏光背銘などに見られる)。さらには「王等臣等乃中尓」(『続日本紀』)のように、「乃(の)」「尓(に)」といった助詞などを小書きにして添える文体が現れた。この文体は祝詞(のりと)・宣命(せんみょう)などに見られるため、「宣命書き」と呼ばれる。 漢文の読み添えには片仮名が用いられるようになり、やがてこれが本文中に進出して、漢文訓読体を元にした「漢字片仮名交じり文」を形成した。最古の例は『東大寺諷誦文稿』(9世紀)とされる。漢字片仮名交じり文では、漢語が多用されるばかりでなく、言い回しも「甚(はなは)ダ広クシテ」「何(なん)ゾ言ハザル」のように、漢文訓読に用いられるものが多いことが特徴である。 一方、平安時代の宮廷文学の文体(和文)は、基本的に和語を用いるものであって、漢語は少ない。また、漢文訓読に使う言い回しもあまりない。たとえば、漢文訓読ふうの「甚ダ広クシテ」「何ゾ言ハザル」は、和文では「いと広う」「などかのたまはぬ」となる。和文は、表記法から見れば、平仮名にところどころ漢字の交じる「平仮名漢字交じり文」である。「春はあけぼの。やうやうしろく成行山ぎはすこしあかりて……」で始まる『枕草子』の文体は典型例の一つである。 両者の文体は、やがて合わさり、『平家物語』に見られるような和漢混淆文が完成した。 強呉(きゃうご)忽(たちまち)にほろびて、姑蘇台(こそたい)の露荊棘(けいきょく)にうつり、暴秦(ぼうしん)すでに衰へて、咸陽宮(かんやうきう)の煙埤堄(へいけい)を隠しけんも、かくやとおぼえて哀れなり。 —『平家物語』聖主臨幸 ここでは、「強呉」「荊棘」といった漢語、「すでに」といった漢文訓読の言い回しがある一方、「かくやとおぼえて哀れなり」といった和文の語彙・言い回しも使われている。 今日、最も普通に用いられる文章は、和語と漢語を適度に交えた一種の和漢混淆文である。「先日、友人と同道して郊外を散策した」というような漢語の多い文章と、「この間、友だちと連れだって町はずれをぶらぶら歩いた」というような和語の多い文章とを、適宜混ぜ合わせ、あるいは使い分けながら文章を綴っている。
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