和漢の融合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 08:41 UTC 版)
室町時代は、「唐物」と称される中国大陸よりもたらされた絵画が珍重された。しかし一方では従来からの「和」の文化もないがしろにされていたわけではなく、土佐派の絵師たちなどが源氏絵や名所絵などの大和絵を制作している。足利義政の邸宅であった東山殿には、「会所」と呼ばれる客殿に嵯峨や近江などの名所絵の障壁画を描かせ、そこに「唐絵」を飾ったという。 「花鳥図」(部分) 狩野永徳筆。京都聚光院方丈の襖絵の一部。 この時期には「大和絵」の金碧障壁画として花鳥画が描かれており、それらのなかには「松」に「鶴」、または「松竹」に「鶴」という画題の屏風があったという記録がある。画面に金箔を貼付けて背景とする金碧障壁画は、ほんらい大和絵から起こった技法であった。この「松」に「鶴」という取合わせはのちの日本絵画に受け継がれている。雪舟も花鳥画を多く描いていたことが記録の上で知られるが、現在雪舟筆と伝わる幾つかの屏風にも「松」と「鶴」がある。絵の中に丹頂鶴、松の木、岩を大きく描き、大小の鳥や四季の花々を配するなど、その構図や画風は牧谿に倣った花鳥画とは相違したものである。 室町時代も末になると「唐絵」に「大和絵」の画風を交えて描くことが行われるようになった。そのなかには花鳥画もあり、それは金碧障壁画として、また春夏秋冬の花々と鳥たちをひとつの画面に右から左へと並べた「四季花鳥図」の屏風や襖絵が描かれるようになった。狩野派の祖狩野正信のせがれ狩野元信はこうした和漢融合の画風で花鳥画を制作していた絵師のひとりであり、元信以降の狩野派や土佐派、また江戸時代の琳派の絵師たちなどもこの流れを受けた花鳥画を描いている。
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