名門・春日野部屋創立
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引退後は、養父である木村宗四郎の持ち株であった年寄・春日野(8代)を襲名した。当時は「分家を許さず」の不文律があった出羽ノ海部屋から例外的に独立を許され、春日野部屋を創立した。不文律の作者・常陸山が唯一認めた例外で、養父の名跡を受け継ぐものであると同時に栃木山自身を人物的に高く評価していたためだった。独立以降も盛んに出羽海部屋の稽古場を行き来し、単なる本家・分家以上の親密な関係を築いていった。1922年に常陸山が没して後継問題をめぐって紛糾した折には出羽海後継の有力候補と見なされたが、すでに独立を許されている身だからと一番に身を退いた。引退後の1926年3月から約1年間は欧米巡遊に出発した。 引退後の1925年11月、第1回明治神宮例祭奉祝全日本力士選士権大会に年寄・春日野として出場し、準決勝・決勝と現役横綱である常ノ花、西ノ海嘉治郎(3代)を連破して優勝を果たした。1931年の「第1回大日本相撲選士権」にも参加、引退からすでに6年を経過していたことから周囲の予想も高くはなかったが自慢の怪力と鋭い取り口は健在で、大関・玉錦三右衛門、関脇・天竜三郎ら現役三役を相次いで破って優勝した。「玉錦らには以前から稽古をつけていて、その取り口を知っていたのではないか」「現役力士側に遠慮があったのではないか」などの意見もあるが、ともかく栃木山の引退が衰えによるものでは無かったことを証明してみせた形だった。また13尺土俵の時代に一時代を築いた栃木山が現在と同じ15尺土俵でも変わらず強かったという意味でもこの逸話は重要な意味を持つ。 1932年1月に起きた春秋園事件では、取締陣総辞職の後を受けて協会取締に就任し、兄弟子だが年下の出羽海(常ノ花)を補佐した。 春日野部屋を創立させた当初は、相模川佶延は横綱間違い無しとも言われたが関脇止まり、鹿嶌洋起市もすぐ三役昇進できると言われたが現役死亡するなど、弟子が育たず困難続きだった。しかし、戦後は栃錦を横綱に昇進させるなど晩年は賑やかな様相を呈した。この他、後に幕内を代表する力士へ成長する栃ノ海晃嘉・栃光正之も栃木山存命時の入門である。
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