名門・春日野部屋創立とは? わかりやすく解説

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名門・春日野部屋創立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 00:13 UTC 版)

栃木山守也」の記事における「名門・春日野部屋創立」の解説

引退後は、養父である木村宗四郎持ち株であった年寄春日野8代)を襲名した当時は「分家許さず」の不文律があった出羽ノ海部屋から例外的に独立許され春日野部屋創立した不文律作者常陸山唯一認めた例外で、養父名跡受け継ぐのである同時に栃木山自身人物的に高く評価していたためだった独立以降盛んに出羽海部屋稽古場行き来し単なる本家分家上の親密な関係を築いていった。1922年常陸山没して後継問題めぐって紛糾した折には出羽海後継の有力候補と見なされたが、すでに独立許されている身だからと一番に身を退いた引退後1926年3月から約1年間欧米巡遊出発した引退後1925年11月第1回明治神宮例祭奉祝全日本力士選士権大会年寄春日野として出場し準決勝・決勝現役横綱である常ノ花西ノ海嘉治郎(3代)連破して優勝果たした1931年の「第1回大日本相撲選士」にも参加引退からすで6年経過していたことから周囲予想高くはなかったが自慢怪力と鋭い取り口健在で、大関玉錦三右衛門関脇天竜三郎現役三役相次いで破って優勝した。「玉錦らには以前から稽古をつけていて、その取り口知っていたのではないか」「現役力士側に遠慮があったのではないか」などの意見もあるが、ともかく栃木山引退衰えよるものでは無かったことを証明してみせた形だった。また13尺土俵時代一時代築いた栃木山が現在と同じ15尺土俵でも変わらず強かったという意味でもこの逸話重要な意味を持つ。 1932年1月起きた春秋園事件では、取締総辞職の後を受けて協会取締就任し兄弟子だが年下出羽海常ノ花)を補佐した春日野部屋創立させた当初は、相模川佶延横綱間違い無しとも言われたが関脇止まり鹿嶌洋起市もすぐ三役昇進できると言われたが現役死亡するなど、弟子が育たず困難続きだった。しかし、戦後栃錦横綱昇進させるなど晩年賑やかな様相呈したこの他、後に幕内代表する力士成長する栃ノ海晃嘉栃光正之栃木山存命時の入門である。

※この「名門・春日野部屋創立」の解説は、「栃木山守也」の解説の一部です。
「名門・春日野部屋創立」を含む「栃木山守也」の記事については、「栃木山守也」の概要を参照ください。

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