同時多発テロの計画と実行犯の準備
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「アメリカ同時多発テロ事件」の記事における「同時多発テロの計画と実行犯の準備」の解説
同時多発テロ計画の考案者はハリド・シェイク・モハメドであり、モハメドは1996年に初めて計画をウサーマ・ビン・ラーディンに提示した。当時、ビン・ラーディンとアルカイダはスーダンからアフガニスタンに拠点を移したばかりであり、一種の過渡期にあった。1998年にビン・ラーディンが発した、「アメリカ人の殺害はムスリムの義務である」とする自称「ファトワー」とされたものと、同じく1998年に発生したアメリカ大使館爆破事件は、ビン・ラーディンが攻撃の焦点をアメリカに定めたことを示す1つの転換点となった。 1998年末もしくは1999年の初め頃、ビン・ラーディンはモハメドが同時多発テロ計画の準備に着手することを承認した。1999年春には、モハメドとビン・ラーディン、およびビン・ラーディンの代理人ムハンマド・アーティフが参加する会合が立て続けに開かれた。アーティフは、ターゲットの選定やハイジャック犯のための渡航の手配など、テロ計画の作戦面での支援を提供した。モハメドの提案は一部ビン・ラーディンによって却下され、ロサンゼルスのライブラリータワーのようないくつかのターゲット候補は、「攻撃の準備をするのに必要な時間が不足している」ことを理由に拒否された。 ビン・ラーディンはテロ計画の統率と資金援助を担当し、計画を実行するテロリストの選抜にも関与した。当初、ビン・ラーディンはナワフ・アル=ハズミ(英語版)とハリド・アル=ミフダール(英語版)というボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で戦った2人の熟練戦闘員をハイジャック機のパイロット役に任命していた。2000年1月中旬、アル=ハズミとアル=ミフダールはアメリカに到着し、2000年春にはサンディエゴで飛行訓練を受けたが、2人はほとんど英語を話せず、また訓練の成績も悪かったため、最終的にはパイロット役以外のハイジャック犯(武力による制圧要員)としてテロに参加することとなった。 1999年後半、モハメド・アタ、マルワン・アル=シェヒ(英語版)、ズィアド・ジャッラーフ(英語版)、ラムジ・ビン・アル=シブ(英語版)らドイツ・ハンブルク在住のイスラーム過激派の一団が、アフガニスタンのアルカーイダ訓練キャンプを訪問した。ビン・ラーディンは、彼らが高い教育を受けており、また英語が堪能で欧米での生活に慣れていることを評価し、テロ計画の中核となる実行メンバーに抜擢した。その後、2000年にはアガニスタンの訓練キャンプにハニ・ハンジュール(英語版)という新兵が加入した。ハンジュールは1999年にアメリカで職業操縦士免許を取得しており、その事実を知ったアルカーイダは彼をテロ計画に参加させた。 ハンブルク在住のテロリストの内、アル=シェヒは2000年5月末に、アタは2000年6月3日に、ジャッラーフは2000年6月27日に、それぞれアメリカに到着した:6。ビン・アル=シブは渡米のためアメリカのビザを何度も申請したが、イエメン国籍であったため、有効期限を過ぎて不法滞在することへの懸念からビザが発給されなかった:4, 14。ビン・アル=シブは渡米を諦めざるを得ず、ハンブルクに留まってアタとハリド・シェイク・モハメドの間の調整役を務めることとなった。アメリカに渡った3人の「ハンブルク・セル」メンバーはフロリダ州南部の航空学校で飛行訓練を受けた:6。一方、ハニ・ハンジュールは2000年12月8日にサンディエゴに到着し、アル=ハズミと合流した:6–7。2人はその後すぐにアリゾナ州に向かい、ハンジュールはそこで操縦の再訓練を受けた:7。 2001年春には、パイロット役以外のハイジャック犯もアメリカに到着し始めた。2001年7月、アタはスペインでビン・アル=シブと会い、攻撃目標の最終的な選択等、テロ計画の調整を行った。その際、ビン・アル=シブはアタに、ビン・ラーディンができるだけ早いテロ攻撃の実行を望んでいることを伝えた。9月7日には在日アメリカ大使館が「日本国内に滞在するアメリカ人に対してテロ攻撃の可能性がある」ことを発表していたが、アメリカ国内のテロ攻撃の警報は出されないままであった。
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