吉川家当主とは? わかりやすく解説

吉川家当主

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 08:46 UTC 版)

吉川広家」の記事における「吉川家当主」の解説

天正14年1586年11月九州平定従軍中の(身分上は隠居の)父・元春が、次いで天正15年1587年6月同じく従軍中で吉川家当主である長兄元長相次いで死去したため、吉川氏家督相続し居城日野山城などの所領継承する。さらに同年9月2日毛利輝元から、毛利氏祖先大江広元の諱から「広」の一字書出与えられ、「経言」から「広家」と改名した。また同年秀吉の命で肥後国人一揆鎮圧のため出陣している。 秀吉からも元春・元長死後の毛利氏支えその手腕を高く評価され天正16年1588年7月25日豊臣姓と羽柴名字下賜され豊臣広家として従五位下叙され侍従任官同年8月2日には従四位下に昇叙し、侍従如元。 天正16年1588年10月には宇喜多直家の娘(宇喜多秀家の姉)で秀吉養女となった容光院正妻迎え形式上秀吉娘婿となった。しかし、僅か2年後天正19年1591年春に容光院病死し以後、広家は正妻迎え側室を置くのみにとどめ、容光院菩提弔った。なお、人質として出された広家の娘は一度秀吉御目見え許されていない天正19年1591年)に秀吉の命により、末次元康居城であった月山富田城に入るよう命じられ出雲3郡・伯耆3郡・安芸1郡及び隠岐一国に及ぶ14万石支配することとなった文禄・慶長の役にも出陣し、しばしば毛利家別働隊指揮し碧蹄館の戦いなども参戦し功を挙げて秀吉から日本槍柱七本1人賞讃された。第一次蔚山城の戦いでは籠城する加藤清正救援赴いて蔚山倭城包囲した明将・楊鎬率い明・朝鮮軍を撃退する功を立てた、この戦に広家が真っ先進み出て明軍向かって突撃し続いて総勢一度突撃した、そして明軍一隊逃走先に進み退路寸断すると、その方向へ明兵は逃げられなくなり、別方向逃げた。この戦の奮戦ぶりも立花宗茂と共に清正からの賞讃得た慶長2年1597年)に叔父小早川隆景亡くなると、毛利家当主毛利輝元から毛利秀元と共に毛利氏支えるよう要請されている。ところが、隆景の死に伴って返上され予定となっていた三原5万石など毛利家から与えられていた所領扱いや輝元の嫡男秀就に後継者を譲る引き換え独立した大名として遇されることになった元へ所領配分問題になった黒田孝高に代わって豊臣政権取次になった石田三成は秀元に広家の所領与え、広家には隆景が毛利家持っていた所領継がせる案を出した。これに所領奪われる広家だけではなく長門国望んでいた秀元、秀元を出雲国に移すことは賛同するものの広家には替地として備中国与えることを考えていた輝元はそれぞれの思惑反発した豊臣秀吉没した直後慶長4年1599年1月豊臣政権は広家へ与え替地先送りしたまま、秀元には広家の所領14万石与えることだけが決定されたが、この案を推進した石田三成豊臣七将襲撃失脚すると、6月になって徳川家康によって見直し図られて秀元に長門国与えられ、広家の所領変更なしとされた。この騒動秀吉死後毛利家少なからぬ混乱もたらして元・秀元・広家の間の足並み乱れ露呈させただけでなく、広家の三成への反発家康への接近招いたとする見方もある。

※この「吉川家当主」の解説は、「吉川広家」の解説の一部です。
「吉川家当主」を含む「吉川広家」の記事については、「吉川広家」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「吉川家当主」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「吉川家当主」の関連用語

吉川家当主のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



吉川家当主のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの吉川広家 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS