吉川家当主
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天正14年(1586年)11月に九州平定従軍中の(身分上は隠居の)父・元春が、次いで翌天正15年(1587年)6月に同じく従軍中で吉川家当主である長兄の元長が相次いで死去したため、吉川氏の家督を相続し居城日野山城などの所領も継承する。さらに同年9月2日に毛利輝元から、毛利氏の祖先・大江広元の諱から「広」の一字書出を与えられ、「経言」から「広家」と改名した。また同年に秀吉の命で肥後国人一揆鎮圧のため出陣している。 秀吉からも元春・元長死後の毛利氏を支えるその手腕を高く評価され、天正16年(1588年)7月25日、豊臣姓と羽柴の名字を下賜され、豊臣広家として従五位下に叙され、侍従に任官。同年8月2日には従四位下に昇叙し、侍従如元。 天正16年(1588年)10月には宇喜多直家の娘(宇喜多秀家の姉)で秀吉の養女となった容光院を正妻に迎え、形式上は秀吉の娘婿となった。しかし、僅か2年後の天正19年(1591年)春に容光院は病死し、以後、広家は正妻を迎えず側室を置くのみにとどめ、容光院の菩提を弔った。なお、人質として出された広家の娘は一度も秀吉に御目見えを許されていない。 天正19年(1591年)に秀吉の命により、末次元康の居城であった月山富田城に入るよう命じられ、出雲3郡・伯耆3郡・安芸1郡及び隠岐一国に及ぶ14万石を支配することとなった。 文禄・慶長の役にも出陣し、しばしば毛利家の別働隊を指揮し、碧蹄館の戦いなども参戦し功を挙げて、秀吉から日本槍柱七本の1人と賞讃された。第一次蔚山城の戦いでは籠城する加藤清正の救援に赴いて蔚山倭城を包囲した明将・楊鎬率いる明・朝鮮軍を撃退する功を立てた、この戦に広家が真っ先に進み出て明軍に向かって突撃し、続いて総勢が一度に突撃した、そして明軍の一隊の逃走先に進み退路を寸断すると、その方向へ明兵は逃げられなくなり、別方向に逃げた。この戦の奮戦ぶりも立花宗茂と共に清正からの賞讃も得た。 慶長2年(1597年)に叔父の小早川隆景が亡くなると、毛利家当主の毛利輝元から毛利秀元と共に毛利氏を支えるよう要請されている。ところが、隆景の死に伴って返上される予定となっていた三原5万石など毛利家から与えられていた所領の扱いや輝元の嫡男秀就に後継者を譲る引き換えに独立した大名として遇されることになった秀元への所領配分が問題になった。黒田孝高に代わって豊臣政権の取次になった石田三成は秀元に広家の所領を与え、広家には隆景が毛利家に持っていた所領を継がせる案を出した。これに所領を奪われる広家だけではなく、長門国を望んでいた秀元、秀元を出雲国に移すことは賛同するものの広家には替地として備中国を与えることを考えていた輝元はそれぞれの思惑で反発した。豊臣秀吉が没した直後の慶長4年(1599年)1月に豊臣政権は広家へ与える替地を先送りしたまま、秀元には広家の所領14万石を与えることだけが決定されたが、この案を推進した石田三成が豊臣七将の襲撃で失脚すると、6月になって徳川家康によって見直しが図られて秀元には長門国が与えられ、広家の所領は変更なしとされた。この騒動は秀吉死後の毛利家に少なからぬ混乱をもたらして輝元・秀元・広家の間の足並みの乱れを露呈させただけでなく、広家の三成への反発と家康への接近を招いたとする見方もある。
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