吉川広家の入封と岩国領の地位
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「岩国藩」の記事における「吉川広家の入封と岩国領の地位」の解説
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで広家は東軍方に内通し、毛利勢の動きを封じ、関ヶ原の戦いに参加させなかった。当初、黒田長政を通じて徳川家康より所領安堵の密約を取りつけていたが、戦後家康は大坂における毛利輝元の行為を理由として毛利家を取り潰し、吉川家を取り立てようとした。これに対して広家は事態収拾のために奔走し、結果として毛利家は改易は免れたものの、安芸国ほか山陽山陰8か国の大大名から長門国・周防国2カ国の国持ち大名クラスへと大幅に減封された。 広家は豊臣時代には出雲国富田で14万石を領していたが、毛利宗家が112万石から29万8千石余(慶長15年(1610年)に検地後、幕閣の了解を得て36万9千石に高直し)に減封されたのに伴い、毛利輝元より東の守りとして、岩国に3万石(長州藩の内高に含まれる)を与えられた。広家は同年(1600年)、岩国へ着任した。 その後、毛利宗家の歴代当主は吉川家当主を陪臣として扱い、将軍に直接御目見することを許さなかった。しかし幕府からは外様大名格として扱われ、参勤交代の義務を負い、当初は居城の築城許可まで与えられていた。ただし伺候席は定められておらず、従五位下の叙位もなかったため、守名乗りもできないという、極めて変則的な状態が江戸時代を通じて続くこととなった。これについては、元々輝元の養嗣子でありながら、輝元の嫡子誕生によって豊臣政権から分知を認められ大名としての資格を得ており、宗家継承権も有していた毛利秀元の長府藩や、輝元の実子である毛利就隆の徳山藩の両藩と、輝元の従兄弟である広家との血縁の親疎を考えた場合、輝元の子を祖とする長府・徳山と庶家の1つでしかない岩国の間に処遇の違いが発生する余地はあり、岩国藩吉川家が冷遇されたというより長府藩毛利家の家格が上昇したと見た方が適切という説がある。
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