吉川広家の入封と岩国領の地位とは? わかりやすく解説

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吉川広家の入封と岩国領の地位

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 04:28 UTC 版)

岩国藩」の記事における「吉川広家の入封と岩国領の地位」の解説

慶長5年1600年)、関ヶ原の戦いで広家は東軍方に内通し毛利勢の動き封じ関ヶ原の戦い参加させなかった。当初黒田長政通じて徳川家康より所領安堵密約取りつけていたが、戦後家康大坂における毛利輝元行為理由として毛利家取り潰し吉川家取り立てようとした。これに対して広家は事態収拾のために奔走し結果として毛利家改易免れたものの、安芸国ほか山陽山陰8か国の大大名から長門国周防国2カ国の国持ち大名クラスへと大幅に減封された。 広家は豊臣時代には出雲国富田14万石領していたが、毛利宗家112万石から298千石余(慶長15年1610年)に検地後、幕閣了解得て369千石高直し)に減封されたのに伴い毛利輝元より東の守りとして、岩国に3万石長州藩内高含まれる)を与えられた。広家は同年1600年)、岩国着任したその後毛利宗家歴代当主吉川家当主陪臣として扱い将軍直接御目見することを許さなかった。しかし幕府からは外様大名格として扱われ参勤交代義務負い当初居城築城許可まで与えられていた。ただし伺候席定められておらず、従五位下叙位もなかったため、守名乗りできないという、極めて変則的な状態が江戸時代通じて続くこととなった。これについては、元々輝元の養嗣子ありながら、輝元の嫡子誕生によって豊臣政権から分知認められ大名として資格得ており、宗家継承有していた毛利秀元長府藩や、輝元の実子である毛利就隆徳山藩の両藩と、輝元の従兄弟である広家との血縁親疎考えた場合、輝元の子を祖とする長府徳山庶家1つしかない岩国の間に処遇違い発生する余地はあり、岩国藩吉川家冷遇されたというより長府藩毛利家家格上昇した見た方が適切という説がある。

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