可動堰への改良
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 23:41 UTC 版)
こうして高瀬井堰は重要な灌漑施設として利用されていった。一方太田川は河川改修が下流部では進んでいたが中流部・上流部では余り進んであらず、集中豪雨や台風が襲うたびに洪水を繰り返し、早急な治水整備が不可欠となっていた。この中で洪水流下能力の阻害になる高瀬井堰の改良が不可欠となった。固定堰は水量を調節する能力が無く、洪水の際には堰が水流を妨げ溢れた水は堰より上流の低地に流入して行く為浸水被害をもたらすのがその理由である(代表例が吉野川第十堰であり、可動堰化か保存かで上流住民と下流住民が対立している)。また、明治期より手掛けられた上水道事業はその後の急激な人口増加によって次第に逼迫の度合いを強め、芸予諸島を含めた新規の水源整備を進めていく必要性も出てきた。その上瀬戸内海沿岸は造船・鉄鋼・石油化学などといった工業地域の拡充も著しく、安定した水道整備が急務となった。 この頃中国最大の河川・江の川では『江の川総合開発事業』として多目的ダムの土師ダムが計画されていた。太田川は上流部に「太田川三ダム」(立岩・樽床・王泊)が完成していたが何れも発電専用のダムで、水道用ダムは建設されていなかった。また下流では慣行水利権の関係上後から勝手な取水を行う事は不可能であり、既存の水量だけでは増加する水需要を賄えなかった。両事業の事業主体であった建設省は水量の豊富な江の川からの太田川へ導水し、利水目的に充てようと考えた。だが江の川の慣行水利権を持つ島根県が『江の川の水が少なくなる』として反対し、解決までには時間が掛かった。利水事業者の広島県・広島市は河川事業者である建設省の仲介で島根県との減水補償交渉を行い、島根県も妥結。土師ダムから陰陽分水嶺を貫く導水トンネルを現在の広島市安佐北区可部まで建設し、そこから放流することで水を確保し、さらに水力発電にも利用する事とした。 こうして治水・利水目的を兼ね備えた河川施設を太田川本川に建設する『太田川総合開発事業』が建設省中国地方建設局(現・国土交通省中国地方整備局)によって1970年(昭和45年)より手掛けられ、その根幹施設として高瀬井堰を固定堰から水量調節の可能な可動堰へ全面改良した高瀬堰が計画された。
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