古瓦の研究史
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古瓦を通して過去に存在した建築を考察する試みは近世に遡る。本居宣長は檜隈寺跡を訪問し発見した瓦について「いづれも布目などつきて古代のものと見たり」と『菅笠日記』に記している。近世には古瓦を硯にする事が流行し、そうした好事家の関心にこたえて藤貞幹や松平定信、法金剛院の宝静誉淳らが瓦の拓本を蒐集して図録を作成した。特に誉淳が1827年から作成した『古瓦譜』は畿内で600点以上の拓本を蒐集し、瓦当文様に着目したうえで編年を試みている。 瓦の編年を体系化したのは関野貞である。関野は「古瓦模様沿革考」を『建築雑誌』に連載後、1928年に『考古学講座第5巻 瓦』を刊行し、徹底した資料の収集と分析を行い、寺院の文献資料などと照らし合わせて編年を行った。石田茂作は1936年に著した『飛鳥時代寺院址の研究』で、いわゆる「引き算」によって型式分類する手法を叙述した。また藤沢一夫は1941年の『摂河泉出土古瓦の研究』で瓦当文様を内区と外区に分けて分類する手法を提唱した。 戦後になると数多くの発掘調査が行われるようになり、研究の基礎資料が蓄積されていく。編年研究は同笵瓦における笵の摩耗や笵傷(はんきず)の進行、笵の彫直しなどを観察したり、文様は模倣を繰り返すことで形式化するという概念により相対年代を判別する、あるいは製作方法の変遷を追うなど手法により詳細な編年が試みられ、古代寺院の研究で成果を上げている。たとえば639年創建の百済大寺の所在地は長年不明とされてきたが、吉備池廃寺から出土した瓦の瓦当文様により当地が有力視されている。また笵傷の進行により薬師寺の造営は、まず金堂から始まり、東塔、中門、回廊、西塔の順で行われたことも判明した。ただし、こうした編年研究に問題が無いわけではなく、特に地方においてはこれに当てはまらない事例も報告されており課題となっている。 以上のように古瓦の研究は型式分類と編年が最重要課題とされてきたが、研究の進展によって地域間交流や系統論、生産論、流通論にも範囲が広がりつつある。一例として八賀晋や鬼頭清明、菱田哲郎などにより、瓦当文様の分布から歴史的背景を読み取ろうとする研究や、小林行雄や大川清などの造瓦技法の復元や瓦工集団の研究などが挙げられる。
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