口論と辞任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/04/27 10:31 UTC 版)
「ハインケル HeS 30」の記事における「口論と辞任」の解説
1939年に109-006として3基の実験用エンジンが発注されたにもかかわらず、移動の為にチームに設計を再開する為の時間がかなりかかり、1942年5月まで最初のエンジンを運転することが出来なかった。さらに移動によって問題が生じた。圧縮機は当初の見込みよりも多くの流量を生じることが判明し、タービンの再設計を余儀なくされた。さらに5月にミューラーとハインケルの間の不仲は最終的にミューラーの辞任に至った。 HeS 30エンジンの開発作業は続き、10月に全力で試運転された。初期のドイツのジェットエンジン全体でHeS 30は最も優れた設計だった。 推力は860 kg (1,895 lb)であり、ほぼ同規模のBMW 003はより低い推力800 kg (1,780 lb)、ユモ004はより高い900 kg (1,980 lb)だった。 重量はHeS30 390 kg (860 lb)で、BMW003の562 kg (1,240 lb)および大幅に重いユモ 004の720 kg (1,585 lb)より出力重量比ははるかに優れていた。 HeS 30エンジンは同様に比推力においても優れており、より小断面積でもあった。全体的な性能は1947年まで達しなかったと言われる。 航空省でエンジンの開発を担当したヘルムート・シュレプはハインケルに生産契約を与える事を拒否した。この出来事はハインケルに悲しみをもたらしたとオハインは主張する。 シュレプはHeS 30の設計は優れていたがBMWとユモのエンジンは既に開発が進んでおりこれ以上"クラス I"のエンジンは必要ないと判断したと記した。皮肉な事にそれらの"先行していた"はずのエンジンは完成まで更に2年かかった。同様に圧縮機の構造に関していくつかの疑念があったが、仮にこれが事実であったとしても決して公にはならなかった。彼は同時期オハインのハインケル HeS 8も中止した。 ミューラーが担当した HeS 30 (109/006) は、可変静翼機構を備える5段軸流圧縮機と10本のキャニュラー型燃焼器、単段タービンによる先進的な設計で、1942年には試作機ができ小型・軽量かつ高出力を発揮したが、単独では始動できずヒーター等の外部補機を要するなど安定性を欠いていたため、先に実用段階に達した ユモ 004 を優先する国策により、計画は放棄された。 "さらに別の" クラス I エンジンの代わりに, シュレプはハインケルに単発式戦闘機のエンジンとしても双発爆撃機のエンジンとしても手頃な推力が約1,300 kgの"クラス II"のエンジンの作業の継続を打診した。 これによりHeS 30 と HeS 008の作業は終了し、ハインケルはしぶしぶハインケル HeS 011へ転向した。それは戦争の終結までに量産は間に合わなかった。ミューラーのチームは新エンジンの作業の為にハインケル-ヒルトの工場へ移動した。 1940年または41年に一定容積型燃焼器を備えたHeS 40 が計画されたが、机上案のみに終わっている。
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