厭次・広固・泰山を攻略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 07:22 UTC 版)
320年1月、段匹磾・段文鴦が後趙領の薊へ侵攻すると、石虎はその隙を突いて邵続が守る厭次を包囲した(段匹磾と邵続は協力関係にあった)。2月、邵続は城から出て自ら石虎を迎撃したが、石虎は伏せていた騎兵に背後を遮断させると、邵続を生け捕りにした。その後、邵続を厭次城下に連れていき、城内の将兵に投降を呼びかけるよう命じたが、邵続は応じなかったので襄国へ送還した。段匹磾らは石虎が厭次へ襲来したと知って軍を返していたが、邵続が捕らわれたとの報が届いて多くの士兵は離散してまった。石虎は厭次への進路を遮断していたが、段文鴦の力戦によりこれを突破された。段匹磾らは厭次に入城を果たすと、邵続の子の邵緝等と共に城を固守した。 8月、石虎は歩兵・騎兵併せて4万を率い、泰山に割拠する徐龕討伐に向かった。石虎軍の到来を知ると、徐龕は長史劉霄を石勒の下に派遣し、妻子を人質に差し出して降伏を請うたので、石虎は攻撃を中止した。東晋の徐州刺史蔡豹もまた徐龕討伐を目的として卞城に軍を置いていたが、石虎は転進するとこれに攻め込み、蔡豹を敗走させた。その後、軍を撤退させると、封丘に城を築いてから帰還した。 321年、託侯部の掘咄那の守る岍北を攻撃すると、これを大破して牛馬20万余りを略奪してから帰還した。 その後、車騎将軍に昇進すると、騎兵3万を率いて鮮卑の鬱粥が守る離石を攻撃し、これを破って烏桓へと逃亡させた。これにより牛馬10万余りを鹵獲し、彼の傘下にあった諸城は尽く石虎に降伏した。 3月、厭次に進軍して段匹磾を攻撃した。段文鴦はこれを迎え撃って多くの後趙兵を討ち取ると、石虎は偽って配下の騎兵に撤退を命じた。これを見た段文鴦は追撃を掛け、段匹磾もまた歩兵を率いて後続したが、ここで石虎は前もって伏せていた兵を一斉に出現させた。段文鴦・段匹磾はこれに怯まずに奮戦して数10人を討ち取り、段日磾は包囲を突破して無事に撤退したが、段文鴦の馬は疲弊して動けなくなってしまった。石虎は段文鴦を包囲すると、彼へ「兄(石虎は段疾陸眷と義兄弟の契りを結んでいたので、その弟である段文鴦もまた兄と呼ぶ)と我は同じ夷狄ではないですか。かねてより兄とは家を一つにしたいと思っておりました。今、天はその願いを叶え、こうして会う事が出来ました。なのにどうしてまた戦いましょうか!どうか武器を収めてください」と請うたが、段文鴦は罵って「汝は寇賊に過ぎず、正に死すべき時である。兄(段疾陸眷)が我の策を用いなかった(312年に段疾陸眷は石勒と講和したが、段文鴦はこれに頑なに反対した)のでこのような事態に陥ってしまったが、我は死を恐れずに戦うのみだ。汝には屈せぬ!」と言い放ち、馬を下りて戦いを継続した。その後も朝から午後になるまで奮戦を続けたが、石虎は四方から包囲を縮め、遂に段文鴦を捕らえた。これにより城内の戦意は消失し、邵洎は城を挙げて石虎に降った。捕縛された段匹磾は石虎と接見すると「我は晋より恩を受け、汝を滅ぼす志を立てた。不幸にもこのような事になってしまったが、汝を敬う事は出来ぬ」と言い放った。段匹磾もまた石虎とは義兄弟に当たるので、石虎は立ちあがって段匹磾に拝礼すると、丁重に襄国へと護送した。これにより冀州・并州・幽州が後趙の支配下に入り、遼西以西の諸集落はみな後趙に帰順した。 322年2月、中外の精鋭4万を率い、徐龕討伐に向かった。徐龕が泰山郡城に籠城すると、石虎は長期戦に備えて耕作を行い、城を何重にも囲んだ。7月、石虎は泰山郡城を攻略し、徐龕を捕らえて襄国へと護送した。 323年8月、中外の歩兵騎兵併せて4万を率い、広固に割拠する曹嶷討伐に向かった。石虎が山東へ到来すると、曹嶷は海中の根余山に逃れて兵力を保とうと考えたが、病の為に実行できなかった。石虎が兵を進めて広固を包囲すると、東萊郡太守劉巴・長広郡太守呂披は郡ごと降伏した。曹嶷配下の羌胡軍もまた征東将軍石他に敗れ去り、さらに左軍将軍石挺が援軍を率いて石虎に合流すると、曹嶷は遂に降伏した。石虎は彼を襄国へ送還し、さらに曹嶷の下にいた人民を皆殺しにしようとしたが、青州刺史劉徴が「今、この徴を留めるのは、民を牧させる為ではないのですか。その民がいなくなれば、どうして牧する事が出来ましょうか!そうなれば徴は帰るのみです!」と諫めたので、これを取り止めた。また、男女700任を留めて劉徴に与え、広固を統治させた。これにより、青州の諸郡県や砦は、全て後趙の支配下となった。
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