南大門復興と仁王像の造立
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「東大寺の仏像」の記事における「南大門復興と仁王像の造立」の解説
創建時の南大門は、応和2年(962年)に大風で倒壊。『山槐記』に応徳元年(1161年)に南大門の再興が企てられたとの記載があるが、実際に再興が完成したのかどうかは定かでない。治承4年(1180年)の平重衡の兵火では、大仏殿などが灰燼に帰したが、この時に南大門が焼けたという記録はなく、治承4年の時点では南大門の本格的な再建はされていなかった可能性がある。治承の兵火後、俊乗房重源が中心になって行われた復興事業のなかで、大仏殿、中門とともに南大門も再建されることとなり、再建南大門(現存の門)は正治元年(1199年)に上棟した。仁王像の像立はその4年後の建仁3年(1203年)である。『東大寺別当次第』によれば、仁王像の制作は建仁3年7月24日に着工され、同年10月3日に開眼。高さ8メートルを超える2体の木像の制作はわずか69日間で終わっている。同書によれば、仁王像は運慶、備中法橋、安阿弥陀仏、越後法橋の4人の大仏師が小仏師16人を率いて制作したという。このうち安阿弥陀仏とは快慶のことであり、備中法橋、越後法橋はそれぞれ湛慶と定覚を指すとみられる。湛慶は運慶の長男で、蓮華王院(三十三間堂)本尊の千手観音坐像などの現存作品がある。もう一人の定覚については、同人が単独で作った仏像は現存せず、運慶らとの血縁関係の有無も不明である。大仏と大仏殿は戦国時代、永禄10年(1567年)の三好・松永の兵火で再度焼けたが、この時は南大門と仁王像は無事であった。1988年から1993年にかけて行われた仁王像の解体修理の際、像内からは経巻などの多くの納入品が発見され、また、像内各所に多数の墨書があることがわかった。 本像には、その巨大さ以外にも、一般の仁王像とは異なる点がある。日本の他の寺院では、門の向かって右に阿形像、左に吽形像を配するのが通例だが、東大寺南大門像では通例とは逆に、向かって右に吽形像、左に阿形像を配する。また、一般に仁王像は正面向き、つまり、南側を正面とする門であれば南向きに安置するのが普通であるが、東大寺南大門像は正面向きではなく、門の中央の通路の方を向いて、阿形像と吽形像が向かい合うように安置されている。本像のように、仁王像を向かい合わせに安置するのは珍しいが、前例がないわけではない。たとえば、奈良・薬師寺の中門の二天像(現存せず)は向かい合わせに立っていたことが、発掘調査で確認された礎石から判明している。阿吽の配置が左右逆になっている例としては、寺門に安置されたものではないが、東大寺法華堂(三月堂)安置の仁王像がある。法華堂仁王像は、向かって右の吽形像、左の阿形像ともに頭部を堂内中央の本尊の方へ向けており、当初からこの配置だったことが明らかである。南大門仁王像の図像的典拠として、京都・清凉寺の釈迦如来立像の像内納入品であった宋時代の版画「霊山変相図」に描かれた仁王像が南大門像と似ていることが指摘されている(熊田由美子の説)。この版画に描かれた仁王像は、吽形像が右足先を跳ね上げている点などの細部に至るまで、図像的特色が南大門像と一致している。清凉寺釈迦像は、東大寺出身の僧・奝然(983年渡宋、986年帰日)が、宋で作らせ、日本に持ち帰った像である。版画「霊山変相図」それ自体は清凉寺釈迦像の胎内に納入されていて人目に触れなかったものであるが、同種の版画を重源が目にして、仁王像造立の参考にした可能性がある。
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