千葉ロッテマリーンズ時代
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「エドガー・オルモス」の記事における「千葉ロッテマリーンズ時代」の解説
2017年12月13日に千葉ロッテマリーンズと契約を結んだ。日本でプレーしたことのある同僚から「日本球界でプレーする機会があるならば、是非やるべきだ」と言われており、オルモス自身も日本球界でのプレーを熱望していた。俳優のジョニー・デップに似ていることから幕張のジョニデと称された。 2018年は制球難に加え、クイックが出来ないという弱点を露呈。1イニングで3盗塁を許し、2度の牽制悪送球を犯すなど序盤から自滅し失点を重ね、2試合に登板して2敗と全くの期待外れに終わった。その後は二軍に降格し、シーズン終了まで一軍に復帰することはなかった。シーズン終了後に自由契約となった。
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千葉ロッテマリーンズ時代
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「李承燁 (野球)」の記事における「千葉ロッテマリーンズ時代」の解説
2004年 復帰間もないボビー・バレンタイン監督のもと、開幕を4番で迎える。開幕戦の対西武ライオンズ戦(西武ドーム)で、松坂から初打席初安打初打点を記録、4月4日の福岡ダイエーホークス戦では新垣渚から来日初本塁打を千葉マリンスタジアムのライト後方の場外まで飛ばすなど好調だったものの、次第に縦の落ちる変化球に対応できない弱点を突かれるようになる。インコース高めで身体を起こされ、次の球が外への変化球で空振りするというパターンが確立され、日本野球への適応に苦戦、開幕から僅か1か月で韓国では経験したことの無い二軍落ちとなり、調整を余儀なくされた。再昇格後の9月21日の西武戦(西武ドーム)ではベニー・アグバヤニ、マット・フランコと共に張誌家から史上初となる外国人だけでの3者連続本塁打を放った。結局、シーズンは来日前に目標としていた「打率.290、30本塁打、100打点」には遠く届かず、出場試合数も100、規定打席も満たせない、打率.240・14本塁打・50打点と期待外れに終わった。 2005年 オープン戦において打率.050の大不振に陥り、ヴァル・パスクチに外国人枠を奪われる格好で開幕を2軍で迎えた。しかし、昇格と同時にロッテの下位打線に定着し、このシーズンは117試合出場、打率.260・30本塁打・82打点とプレーオフ進出に貢献。プレーオフは7試合で16打数3安打と鳴りを潜めたが、阪神タイガースとの日本シリーズでは、第1戦で井川慶から本塁打を放った。第2戦でも本塁打を放ち、第3戦ではスタメンを外れたものの、第4戦は先制本塁打を放つなどシリーズ計3本塁打を放って日本一に貢献し、優秀選手賞を受賞した(MVPは今江敏晃)。続くアジアシリーズでは古巣・三星との対決となり、第1戦では5番、決勝戦では3番と主軸を任されたものの、2試合で無安打に終わった。「シーズンを通じて調子の波が大きい」「左投手に弱い」との理由で、相手先発が左投手のときはスタメンを外されるなど、ロッテ時代は最後まで固定されたレギュラーを任せられなかった。ボビー・バレンタインがプラトーン・システムを採用する監督だったためでもある(マリンガン打線も参照)。守備位置も、李は本来一塁手であったが、一塁には福浦和也がいたため、DHや韓国では一度も経験のなかった左翼手でも出場するなど守備機会は安定しなかった。ロッテ残留との報道も出ていたが、ロッテでの起用法に不満を持っていたため、自由契約となる。
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