日本球界でのプレーとは? わかりやすく解説

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日本球界でのプレー(1983年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 09:50 UTC 版)

レジー・スミス」の記事における「日本球界でのプレー(1983年)」の解説

日本での公式戦初出場1983年4月9日の対大洋戦(後楽園球場)「5番左翼手」で先発出場来日本塁打1983年4月13日の対ヤクルト戦神宮球場)。来日1年目メジャー時代故障した肩や膝の具合思わしくなく欠場多かったが、勝負強いバッティングで、クリーンナップ打ち1983年リーグ優勝貢献した。主に5番を打つことが多かったが、相手チーム先発投手が左投手予想された時は、当時藤田元司監督は、3番原辰徳4番スミスオーダーを組むこともしばしばあった。 1983年10月11日後楽園球場での対ヤクルト戦で、初回の第1打席松岡弘から25先制3ラン3回裏の2打席目は黒田真二から勝ち越し262ラン、そして最終打席8回裏には中本茂樹からダメ押し27ソロと、1試合3本塁打6打点大活躍で、当日巨人セ・リーグ優勝決めたことに花を添えた右肩両膝故障抱えていたため102試合出場規定打席未到達)に留まったが、28本塁打72打点長打力健在で、若手選手野球教えだすと止まらないため「ティーチャー」という渾名付いた

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日本球界でのプレー(1984年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 09:50 UTC 版)

レジー・スミス」の記事における「日本球界でのプレー(1984年)」の解説

1984年4月6日阪神との開幕戦後楽園球場)で「5番右翼手」で先発出場。第1打席野村収から1号3ラン来日2年目1984年も、前年同様故障多く欠場続いた打撃成績前年よりも低下。さらに、若手吉村禎章台頭ウォーレン・クロマティ加入もあり、吉村が「ライト」の定位置獲得しスミス出番減った8月15日後楽園球場での対阪神戦試合前、数十人のファン取り囲まれ小競り合いとなり(中には息子のレジー・ジュニアにも物を投げつけたファンもいた)、そのうち数名暴行加えたとして地元警察署連行後日書類送検された。ファン側から人種差別受け取れる野次浴びたこと、息子のレジー・ジュニアも暴行を受けそうになった事が原因とされる結果的に不起訴処分となった8月15日試合では、阪神ファン応援しているレフトスタンドへ左打席から14号3ラン打ち込んだ)。 1984年10月2日神宮球場での対ヤクルト戦代打登場し大川章から17号3ラン打ち現役最終打席本塁打終える。10月11日巨人退団発表された。

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