日本球界でのプレー(1983年)
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日本での公式戦初出場は1983年4月9日の対大洋戦(後楽園球場)「5番・左翼手」で先発出場。 来日初本塁打は1983年4月13日の対ヤクルト戦(神宮球場)。来日1年目はメジャー時代に故障した肩や膝の具合が思わしくなく欠場が多かったが、勝負強いバッティングで、クリーンナップを打ち、1983年のリーグ優勝に貢献した。主に5番を打つことが多かったが、相手チームの先発投手が左投手と予想された時は、当時の藤田元司監督は、3番・原辰徳、4番・スミスのオーダーを組むこともしばしばあった。 1983年10月11日、後楽園球場での対ヤクルト戦で、初回の第1打席に松岡弘から25号先制3ラン、3回裏の2打席目は黒田真二から勝ち越しの26号2ラン、そして最終打席の8回裏には中本茂樹からダメ押しの27号ソロと、1試合3本塁打6打点の大活躍で、当日に巨人がセ・リーグ優勝を決めたことに花を添えた。 右肩と両膝に故障を抱えていたため102試合出場(規定打席未到達)に留まったが、28本塁打、72打点と長打力は健在で、若手選手に野球を教えだすと止まらないため「ティーチャー」という渾名が付いた。
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日本球界でのプレー(1984年)
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1984年4月6日の阪神との開幕戦(後楽園球場)で「5番・右翼手」で先発出場。第1打席で野村収から1号3ラン。来日2年目の1984年も、前年同様故障が多く欠場が続いた。打撃成績も前年よりも低下。さらに、若手の吉村禎章の台頭、ウォーレン・クロマティの加入もあり、吉村が「ライト」の定位置を獲得し、スミスの出番が減った。 8月15日、後楽園球場での対阪神戦の試合前、数十人のファンに取り囲まれ小競り合いとなり(中には、息子のレジー・ジュニアにも物を投げつけたファンもいた)、そのうち数名に暴行を加えたとして地元警察署に連行、後日書類送検された。ファン側から人種差別と受け取れる野次を浴びたこと、息子のレジー・ジュニアも暴行を受けそうになった事が原因とされる。結果的には不起訴処分となった(8月15日の試合では、阪神ファンが応援しているレフトスタンドへ左打席から14号3ランを打ち込んだ)。 1984年10月2日、神宮球場での対ヤクルト戦で代打で登場し、大川章から17号3ランを打ち、現役最終打席を本塁打で終える。10月11日、巨人退団が発表された。
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