千葉ロッテマリーンズコーチ・監督時代
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「西村徳文」の記事における「千葉ロッテマリーンズコーチ・監督時代」の解説
1998年は一軍内野守備走塁コーチを務めた。1999年は一軍外野守備走塁コーチに転任し、その後は二軍外野守備走塁コーチなどを務めた。 2004年にボビー・バレンタインが監督に就任すると一軍ヘッド兼外野守備走塁コーチに配置転換された。選手とのパイプ役として信頼され、バレンタインがシーズン後に帰国した際は監督代行を務めた。 また西村は人望に優れて選手の信頼も厚く、2009年10月8日にはバレンタイン後任として2010年より監督に就任することが発表された。背番号はコーチ時代と同じ78となり、年俸5,000万円(推定)で2年契約を結んでいる 2010年は監督就任一年目としてチームスローガンに「和」を掲げた。順位予想でロッテが最下位とみなす声が多い中で開幕戦こそ落としたものの、同開幕カードから4カード連続で勝ち越すなど、開幕から1か月を経過しないうちに貯金を10に乗せる。後半戦に入ると選手の疲労や離脱などで7連敗を喫し、8月4日には審判への抗議で自身初の退場処分も受けた。しかし、主力選手と個人面談を行なった翌日から3連勝し、結果的にこの一日が節目となってシーズン最終戦に勝利して3位を確保し、3年ぶりのクライマックスシリーズ出場を決めた。 迎えたクライマックスシリーズでは第1ステージ(対埼玉西武ライオンズ戦)、第2ステージ(対福岡ソフトバンクホークス戦)ともに全試合が相手主催試合ながら勝ち抜き、日本プロ野球史上初となる、レギュラーシーズン3位から日本シリーズ出場権を勝ち取った。同年の日本シリーズ(対中日戦)も4勝2敗1分でロッテを5年ぶり4度目の日本一に導いた。ちなみに監督就任1年目の日本一達成は史上9人目、ロッテでは湯浅禎夫(毎日オリオンズ)以来60年ぶりの快挙となった。傑出した選手が少なく故障者も多い中でチームを束ね、史上初めてレギュラーシーズン3位から日本一を達成した業績が評価され、11月15日に正力松太郎賞を、25日には新設された串間市民栄誉賞を受賞した。12月7日、野球殿堂入り候補者名簿・プレーヤー部門に掲載された。 2011年は優勝したソフトバンクに33.5ゲーム差、5位東北楽天ゴールデンイーグルスに10ゲーム差をつけられて13年ぶりの最下位に終わった。 2012年は開幕4連勝し、その後も6月には貯金を最大15として首位を独走したが、7月以降は徐々に成績を落とし、9月には9連敗で最大で借金5にまで落ち込んだ。2年連続最下位こそは免れたが前年に続きBクラスの5位に終わり、責任を取る形でシーズン終了を以って退任した。これにより、選手時代から31年間在籍し続けたチームを退団した。
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