北海道銀行との合併構想の破談
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 23:48 UTC 版)
「北海道拓殖銀行」の記事における「北海道銀行との合併構想の破談」の解説
1997年(平成9年)3月、拓銀は貸出金総額に対する不良債権の割合が13.4%と、都銀の中で飛びぬけて多いことが分かり、経営不安と共に資金調達難が生じた。「大手20行は潰さない」との方針を持っていた大蔵省は、拓銀を北海道第2の銀行であり、藤田恒郎(元大蔵省証券局長)が頭取を務める北海道銀行(道銀)と合併させる方針をとった。道銀もバブル崩壊で、また道内第3位の北洋銀行との競合もあり、経営が苦しかったため、拓銀が存続会社になり「新北海道銀行」として翌年4月に合併するという計画が発表された。 1997年(平成9年)3月15日、道銀の藤田頭取は地銀協の例会で東京に向かい、同日夜に宿泊先のウェスティンホテル東京501号室で拓銀の河谷禎昌頭取と会談をもった。藤田頭取は合併素案を記したメモを差し出し、河谷頭取もこれを了承。同席者はおらず、トップ2人だけの一晩の会談で銀行同士の合併が決定された。半月後の4月1日に札幌グランドホテルで記者会見を開き、素案メモとほぼ同様の合併趣意書が発表された。新銀行の肩書きは都銀でも地銀でもない「スーパーリージョナルバンク」と言葉を濁らせるも、「今回の合併は相思相愛の恋愛結婚」と両頭取らは胸を張った。また、地元有力紙の北海道新聞も両行の合併に賛成の立場を取り、道内経済界に対し強く支援を呼びかけた。 しかし、不良債権の認識の相違に対する不信感や、長年のライバルである拓銀への感情論もあり、道銀行員は合併に強く反対。さらに、道銀が拓銀に本州営業撤退による強力な合理化を求めたのに対し、拓銀の営業基盤は事実上北海道と東京に分かれており、営業利益の4割の源泉である本州からの撤退に強く反発したことが決定的要因となり合併は凍結。両行は激しく衝突し、9月12日になってからの合併の半年延期を発表、道銀側は白紙撤回したものと受け取っていた。 拓銀は道銀以外にも日本興業銀行や日本長期信用銀行に対しても業務・資本提携を打診し、また、親密な関係にあった明治生命や朝日生命にも増資を持ちかけたが、あまりに悪化した拓銀の財務状況や、道銀との合併破談が噂されたことで、いずれも相手にされなかった。
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