北東航路の探索
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 01:34 UTC 版)
大航海時代が始まり、アメリカ大陸が発見されると、航海熱が高まり、北極海を通ったアジアへの最短ルートがあると信じられるようになった。いわゆる北西航路・北東航路である。特にイギリスやフランス、オランダがこの航路探索に力を入れた。そんな中、1553年に北東航路探索中だったリチャード・チャンセラー(英語版)が白海へとたどりつき、ホルモゴルイからモスクワ大公国へと到達した。これによって1555年にロンドンにおいてモスクワ会社が設立され、北極海を通じたイギリス・ロシア交易が盛んとなった。1584年に建設されたノヴォ・ホルモゴルイ(現アルハンゲリスク)がこの交易の拠点となった。1594年には、ウィレム・バレンツがノヴァヤゼムリャ島を発見した。1596年にはバレンツの3度目の探検によってスヴァールバル諸島のスピッツベルゲン島が発見されている。この島はしばらく放置されていたが、1608年にヘンリー・ハドソンが北極海探検を行った際、この島近くにホッキョククジラの大群が生息していることを報告し、以後バレンツ海ではイギリスとオランダによる捕鯨が盛んに行われるようになり、スピッツベルゲン島は捕鯨拠点として一時繁栄した。イギリスはやがて脱落し、オランダによる独占状態となったが、乱獲により1680年代以降次第に衰退していった。一方でこの時代、北東航路の最東端となっていたヤマル半島のマンガゼヤへの就航が禁じられ、これにより北東航路探索も一時下火となった。ポモールはこの後もアルハンゲリスクを中心として、ノルウェーのヴァードー、ハンメルフェスト、トロムソの3都市との間でロシアの穀物とノルウェー北部の魚を交易する、いわゆるポモール交易を行って繁栄し、19世紀には白海沿岸に、ロシア語とノルウェー語のピジン言語であるルッセノルスクが広まったが、この交易並びに言語はソヴィエト連邦の成立により終焉を迎えた。 こののちはロシア人によって探検が進められていった。毛皮を求めて東進するロシア人は17世紀中盤には太平洋へと到達し、1648年にはセミョン・デジニョフがベーリング海峡を発見するものの、この発見は1世紀近く忘れ去られる。1725年から1730年までは、ヴィトゥス・ベーリングがカムチャッカやチュコト半島を探検し、ベーリング海峡を再発見した。19世紀中盤には、ヤコフ・サンニコフ、フェルディナント・フォン・ウランゲルなどの探検によって北極海沿岸の地形が判明し、1875年にはアドルフ・エリク・ノルデンショルドがヴェガ号によって北東航路の通航に成功した。1879年にはアメリカのジョージ・ワシントン・デロングがジャネット号で北極海探検に出発したもののノボシビルスク諸島沖で沈没し、デロングはじめほとんどの探検隊員が死亡したが、3年後の1882年に、北極海よりはるか南、大西洋に面するグリーンランド最南端のユリアーネハーブにジャネット号の残骸が漂着した。これは北極海中央部を東から西へと流れる海流の存在を示唆しており、この海流を念頭に、1893年から1896年まで、北極点到達を目指したフリチョフ・ナンセンによってフラム号遠征が行われた。この探検においては北極点到達はならなかったものの当時の最北到達記録を更新するとともに、この航海によって開発された探検技術はこれよりのちの探検に多大な影響を与えた。
※この「北東航路の探索」の解説は、「北極海」の解説の一部です。
「北東航路の探索」を含む「北極海」の記事については、「北極海」の概要を参照ください。
- 北東航路の探索のページへのリンク