北東斜面地区の遺構と遺物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/09 04:51 UTC 版)
「岩野山古墳群」の記事における「北東斜面地区の遺構と遺物」の解説
A1号墳は、基盤の粘土層を削りだして高さ30センチメートル、長さ5.8メートル、幅2メートルのベッド状に基壇をつくった跡があり、その中央に長さ3.5メートル、幅1メートルの土坑があった。土坑の外縁に沿って幅15センチメートル、深さ20センチメートルほどの小さな溝状痕跡が四囲をめぐっていたが、これは基壇の上に組み合わせ式木棺を置いた痕跡と考えられる。副葬品として蕨手刀、毛抜形大刀(黒漆塗り、鉄装)、履輪式方頭直刀、鉄製轡(くつわ)、勾玉4、腰帯飾石(石製銙具)10、須恵器坏(つき)3、須恵器皿1、須恵器長頸壺1、刀子(とうす)2点などが出土した。出土した遺物から9世紀前半に営まれたと考えられる。 A2号墳は、1号墳の南西2メートルの地点で確認された。長さ2.5メートル、幅75センチメートル、深さ15ないし20センチメートルの土坑で、確認状況から、長さ1.9メートルの丸太を半分に断ち割り、それを刳りぬいて割竹形木棺としたものであり、前後は30センチメートルほどの厚さの木材で密閉したとみられる。ここでも浅い土坑のうえに木棺を置いたものと考えられ、A1号墳の事例とともに宮城県烏屋崎2号墳にみられるような墳丘中腹への木棺直葬に類似する例と考えられる。副葬品は鉄製刀子、雁股(かりまた)鉄鏃、平根の鏃、勾玉1、須恵器坏3、土師器坏1であった。出土遺物から9世紀前半に営まれたと考えられる。 A3号墳は、粘土槨のなかに長さ1.7メートル、幅70センチメートル、深さ15ないし20センチメートルの土坑があり、内部に木炭片が混入していた。副葬品は2点であるが、詳細不明となってしまっている。 A4号墳は、粘土槨のなかに3号墳とほぼ同規模の土坑があり、内部に木炭片が混入していた。副葬品は須恵器坏1、土師器鉢1である。主軸は3号墳同様、東西方向である。 A5号墳は、北端一部が破壊されているが粘土槨のなかに長さ3.4メートル、中央幅1メートル、深さ15センチメートルの土坑があり、内部に土師器坏の破片が散乱し、須恵器壺破片が上面を覆っていた。 A6号墳は、粘土槨のなかに長さ2.7メートル、幅90センチメートル、深さ15ないし20センチメートルの土坑があり、長軸両端が平面形状ではややすぼまり、断面はやや深くなる形状をなしていた。北西端の一段低い箇所に粘土塊があり、その上面から土師器片、下面から刀子3、腰帯飾石1が置かれていた。
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