北東航路発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/07 07:30 UTC 版)
「アドルフ・エリク・ノルデンショルド」の記事における「北東航路発見」の解説
スウェーデン王立科学アカデミーの教授となったノルデンショルドは、スウェーデンの科学者の間ですでに有名になっており、国を挙げて大歓迎をされた。スウェーデン市民となった彼は、フィンランドでは貴族階級であったため、スウェーデン議会の貴族議員に選ばれている。それでも彼は、故国フィンランドとの関係を保ち続けた。1863年にフィンランド出身のアンナ・マンネルヘイムと結婚するが、彼女はフィンランドの軍人・政治家カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムのおばにあたる人物である。ノルデンショルドはその後、ロシア政府に帰国が許されず、またスウェーデンの恩義のため、スウェーデンの国籍を取得し、帰化することとなった。 その後、スウェーデンの探険隊を率いてスピッツベルゲン島を調査し、動物学、植物学、地質学、気象学上の貴重な知識をもたらし、その成果によって1869年にイギリスの王立地理学会から金メダル(創立者メダル)を受賞した。 1878年、ノルデンショルドは、未だ成功していない北極海での北東航路の開拓と、北極における研究と調査のため、航海計画を立てた。ただし実際は、シベリアの海域の航路を保障する商業航路開拓であったとも言われている。北極海での探索、遠征は国家の政策であり、この時代のヨーロッパ諸国も先を争って遠征活動を行っていたのである。この航海計画はスウェーデン国王オスカル2世によって承認され、国王や商人などの支援を得て、蒸気船「ヴェガ号」を旗艦とし、ノルデンショルドは航海の責任者となった。計画は綿密に立てられ、1878年7月4日にストックホルムからイェーテボリを経由し、出港した。8月にはユーラシア大陸最北端のチェリュスキン岬を史上初めて船で回ることに成功し、航海は順調であったが、9月末、北東航路の走破寸前のベーリング海で流氷に囲まれるという不運に見舞われる。この事件はアメリカ合衆国に伝わり、アメリカ海軍のデロング隊が救出のためにベーリング海へ向かっている。しかし、ヴェガ号は翌1879年の7月に流氷から解放され、一人の死者も出さずに北東航路の通航に成功した。
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