3度目の探検
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/12 20:44 UTC 版)
ラサールは毛皮交易を大々的に、安全に行うために、一連の砦と、補給線をモントリオールから五大湖経由でオハイオバレーに作り、1679年にはフロンテナック砦と、ナイアガラ川河口にコンティ砦も建設した。ラ・サールは、この砦の近くで船を作り、ル・グリフォンと名付けて、五大湖の探検に使った。これはエリー湖を航海した初の商用帆船であった。翌年の夏、現在のウィスコンシン州グリーンベイまで航海し、そこに交易所を作った。その地域はビーバー戦争によって通過することができず、この湖を航海する新しい経路は、フランス商人に、危険な辺境地帯を避けての交易を可能にさせ、戦争の最前線を通らずに、部族との交易ができるようになった。ラサールは交易所にとどまっている間、2人の男にインディアンの案内人をつけて、西にあるミシシッピ川の探索にやった。2人は、最終的にセントアンソニーの滝の位置を突き止めてから戻った。 1679年9月、ラ・サールはナイアガラへ戻るために出発したが、ミシガン湖の東岸に当たる、セントジョセフ川の河口でその旅を中止した。一行はその川の上流へと船をこぎ、イリノイカントリーとオハイオカントリーへの探検を続けるため、その拠点として小さな砦を建てた。そこで、陸上からやってくる物資と人員とを待った。彼はグリフォンに乗組員を乗せてモントリオールへ返したが、船はつかず、戻る途中で死んだのだろうと思われた。 1679年12月3日、ラ・サールの一行20人がイリノイカントリーへ出発した。セントジョセフ川からカンカキー川へつながる連水経路を探す予定だったが、連水経路は見つからず、ラ・サールは他の者達とはぐれてしまった。その夜、吹雪の中をラ・サールと一行とは離れ離れで過ごしたが、翌朝ラ・サールは川の方へと出て、一行に再び加わることができた。彼らはなおも探検を続け、ついに連水経路を見つけて、陸路カンカキー川へと進んだ。川に到着してカヌーを漕ぎ出し、西へ向かってミシシッピ川を下った。物資は底をつき始めたが、泥沼で立ち往生するバイソンを捕えて食糧とし、食糧の大部分をそれで補充した。なおも下流へ向かったラ・サール一行は、大きなインディアン集落を見つけて、そこに停泊して砦を作り、クレヴェクール砦と名付けた。 この砦を交易所として使うために、ラ・サールは地元の部族を呼んで交渉した。彼らと交易の協定を結ぶことができたが、この地元部族自身が、イロコイ連邦との戦争で通行を閉ざされているのに気付いた。イロコイ連邦はその周辺を襲撃しまわっていたのである。この地域の東はマイアミ族、南東にはウィー(英語版)族、ピアンケショー(英語版)族、隣接した地域にはイリノイ(英語版)族、そしてもっと西にはペオリア(英語版)族がいて、メインからはるばるやって来た部族もいた。このメインの部族は、侵入してきたイロコイ連邦を避けるため、この地に逃げてきたのだった。地元部族の大部分は、クレヴェクール砦の東側の大部分に当たるオハイオカントリーに住んでいたが、やはりイロコイ連邦の襲撃のため、イリノイカントリーやその他の地にのがれてきたのであった。 その冬の残りは周辺地帯で毛皮を集めるのに費やし、春になってから一行のうちの一部が、モントリオールへ、毛皮を輸送するために、できたばかりの交易路を通って行った。彼らはカナダへ行って毛皮を売ったが、その後行方をくらまし、戻ってこなかった。ラ・サールは、彼らに何があったのかを知ろうとカナダへ出発した。その途中で、ラ・サールはヌーベルフランスの新総督と出会った。この総督はラ・サールが建てた交易所をわがものにして、駐屯兵を置いていた。イリノイカントリーの交易所へ戻ったラサールは、交易所が壊されているのを発見した、彼が出発して間もない1680年の秋に、暴動を起こした彼の仲間のしわざだった。地元部族はミシシッピ川の西へ行って姿が見えなかった、おそらくは度重なるイロコイ族の襲撃のせいだった。
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