3度目の北西航路航海
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 01:47 UTC 版)
「マーティン・フロビッシャー」の記事における「3度目の北西航路航海」の解説
鉱石の正体をめぐる争いにもかかわらず、新発見の土地の富や生産性に対するエリザベス1世や出資者の信頼は厚かった。エリザベス1世はこの土地に「メタ・インコグニータ」(Meta Incognita)と名づけ、100人規模の恒久的な植民地建設のために必要な人員や資材を運ぶため、より巨大な船団を用意しようとした。フロビッシャーは再度女王の命を受け、女王は首から金のネックレスをほどいて彼に与えた。 1578年6月3日、旗艦エイド号を始めとする計15隻の大船団がプリマスを出て、英仏海峡を経て北に向かった。今回の目的は北西航路ではなく、完全に金の採集と植民地建設であった。彼らは6月20日にグリーンランド南部に着いた。フロビッシャーは最初の航海の際からこれをグリーンランドではなく大西洋の地図に書かれていた実在しない島フリーズランド(Friesland)だと信じており、これに「ウエスト・イングランド」と名付けて女王の名の下で領有を主張し上陸した。 7月2日、フロビッシャー湾の入り口の陸地が見えてきた。しかし危険な海氷と荒れ狂う天候のために上陸できず、しかも100トン級のバーク船デニス号が難破してしまった。乗組員は救助されたが、入植地建設の資材である材木が失われたことが大きな痛手となった。船団はそのまま南へと流された。彼らは西へ向かって海峡を60リーグも進んだものの、一行はやがてこれが「フロビッシャー海峡」ではなく、その南にある「間違った海峡」(Mistaken strait)だと気づいた。フロビッシャーはなおもこれがフロビッシャー海峡だと主張したが、最後にはいやいや間違いを認めて引き返した。この「間違えた海峡」が現在のハドソン海峡であり、フロビッシャーは後にこれが北西航路につながっているのではないかと述べている。 さらに1隻が意見の相違のうえイングランドへと帰ってしまい、7月末に一行はようやくフロビッシャー湾南部のカウンテス・オブ・ウォリック湾(Countess of Warwick Sound)に集結して錨を下ろした。入植地の建設が始まり、前回以上の量の鉱石が集められた。しかし資材不足から越冬用の建物が十分に建てられず、一行の中で不満や反対の声が渦巻いた。結局、フロビッシャーは恒久植民地建設をあきらめ、8月末に13隻の船で鉱石を満載して10月初めにイングランドに帰国した。 この1000トンもの鉱石の製錬のために、ダートフォードに建設された精錬工場で製錬が始まり、金を取り出す作業が少なくとも1583年まで続いた。しかし、結局この鉱石が、見かけが金に似ていることから「愚者の黄金」(フールズ・ゴールド)とよばれる無価値な黄鉄鉱であることを出資者も認めざるを得なくなった。鉱石は道路の舗装材に使われ、キャセイ会社は破綻した。
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