3度目の早大監督就任
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1981年、過去4年間、大学選手権の出場すらままならないという不振の現状を打破すべく、3度目の早大監督就任となった。クライマックスは関東大学対抗戦における全勝対決となった早明戦であった。前年まで4連敗中であったため、同年も下馬評では圧倒的明大有利との評価であったが、これを覆して21-15で快勝した。早大の試合運びは、軽量フォワードが巧みにボールを奪ってバックス展開し、ゆさぶりをかけるサインプレーの横の展開勝負であった。試合後、「勝ったら歌わせてやる」という大西が選手と行った約束により全国制覇したときにしか歌唱しないという慣習である「荒ぶる」が特例的に歌われた。その後の大学選手権決勝では明大に雪辱を許したものの、低迷していたチームを再び復活させた。1982年、早大監督として全早大を率いてフランス・イギリスへ遠征。ケンブリッジ大学と対戦し、13対12と1点差を逃げ切って日本の単独チームとしてケンブリッジ大学から初勝利をあげた。 その後、日本オリンピック委員会委員などの要職を歴任。プロ容認に追随する日本委員会の風潮に異議を唱え、自身の体験に基づきスポーツの意義とアマチュアリズムを主張した。3度目の早大監督就任前には早大の付属校である早稲田大学高等学院ラグビー部の指導にも携わり(肩書はヘッドコーチ)、都大会優勝候補でなかった同校を全国大会出場に導いた。 1995年、胸部大動脈瘤により死去。享年79。
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