3度目の衝突とは? わかりやすく解説

3度目の衝突

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/26 06:00 UTC 版)

ハールィチ・ヴォルィーニ戦争」の記事における「3度目の衝突」の解説

1370年カジミェシュ3世の死を機会リュバルタスヴォロディームィル=ヴォルィーンシキーを含むヴォルィーニの全地域占領した。さらに1370年から1387年まで、ハールィチポーランド王位継承したラヨシュ1世によってハンガリー王冠の属領組み入れられた。ラヨシュ1世ハールィチ統治オポーレ公ヴワディスワフ任せた1376年には、ポーランドとリトアニア戦争再発したリュバルタスケーストゥティスベルズユーリーサンドミェシュ英語版)とタルヌフ攻撃しクラクフまで進軍し多く捕虜連行した。しかし、ラヨシュ1世による報復の後にリュバルタスハンガリー王忠誠誓い息子人質差し出したアルギルダス1377年死んだことで、リュバルタスリトアニアからの支援を受ける望みをほぼ絶たれた。 1378年ラヨシュ1世ハールィチハンガリー王国領に直接組み込んだ1382年ラヨシュ1世が死ぬと、リュバルタスハンガリー人駐屯していたクレミェニェツ(英語版)やプシェムィシルの城を占拠したが、全面戦争再開することはなかった。当時ハールィチ・ヴォルィーニめぐって競いあっていたリトアニアポーランドハンガリーには、3国家巻き込んだ王位継承問題浮上していた。ポーランドの貴族達はポーランド王にハンガリー王女ヤドヴィガをつけ、リトアニア大公ヨガイラアルギルダス息子)を彼女の夫に迎えようと考えたヤドヴィガヨガイラクレヴォ条約調印しポーランドとリトアニア同君連合成立した1387年ヤドヴィガハールィチポーランド領に回復させた。 リュバルタス1384年頃に死去しヴォルィーニ公国君主の座は息子フョードル受け継がれた。しかしヨガイラ従弟フョードル主権制限し始めた1381年から1384年まで続いたリトアニア内戦の後、ヨガイラ従弟ヴィータウタスケーストゥティス息子)と和解望みルーツィクヴォロディームィル=ヴォルィーンシキーヴィータウタス与えることを約束した。しかしヴィータウタスはこの補償満足せずトラカイ世襲領地回復リトアニア大公国支配権獲得狙って1389年リトアニア内戦再開させた。この内戦は1392年にアストラヴァスの和約英語版)の締結終わりハールィチ・ヴォルィーニ問題解決したポーランドハールィチを、リトアニアヴォルィーニ獲得することが最終的に確定したのである

※この「3度目の衝突」の解説は、「ハールィチ・ヴォルィーニ戦争」の解説の一部です。
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