北大東島の開墾開始まで
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「北大東島のリン鉱山」の記事における「北大東島の開墾開始まで」の解説
1885年7月15日、沖縄県令西村捨三は政府に大東島を正式に日本領に編入し、沖縄県の管轄にするように求める伺書を提出した。内務卿山縣有朋は1885年8月1日付で伺書の趣旨を認め、大東島を調査して島内に日本領であることを示す国標を設置するよう命じた。8月28日、沖縄県は県属や巡査らを大東島に派遣し、8月29日に南大東島、31日に北大東島を調査し、国標を設置した。なお1885年の沖縄県による調査は主として南大東島の調査に費やされ、北大東島に関しては国標設置のために上陸した程度であった。 1891年10月、アメリカ船籍の船、キットセップが大東諸島付近で遭難して南大東島に乗組員が漂着した。漂着後、船長以下4名がカッターに乗って沖縄本島に辿り着いて救援を要請し、要請を受けた沖縄県は南大東島に救援船を派遣した。キットセップ号の南大東島漂着時、漂着者から島内の中央部に大きな池があり、水は飲用に適するとの報告があった。この島内に飲用に適する池があるとの情報は、南北大東島への移住、開墾の出願が始まるきっかけとなった。 1891年11月20日、古賀辰四郎が大東島の開墾を出願した。同年12月5日には島袋完衛、翌1892年2月は萩野芳蔵、重久善左衛門、9月には服部徹と、大東島の開墾出願者が相次いだ。しかし1891年から92年にかけての出願者は皆、開墾に着手すること自体出来ず、失敗に終わった。1895年10月に出願した広川勇之介もまた失敗した。 7番目の出願者が玉置半右衛門であった。1899年10月に南北大東島の開墾を出願した玉置は、自らの故郷、八丈島で開拓者を募集し、1900年から南大東島の開墾に着手した。玉置三右衛門は自らが経営する玉置商会の社員が島内の経営管理、統治を担い、故郷八丈島出身者を親方、そして主として沖縄県出身の仲間と呼ばれた契約雇用農民を底辺とするピラミッド型の仕組みを作り、医療、日用品等の入手、島内の出入の統制、私設小学校の設立、そして島内流通の大東島紙幣の発行と、玉置商会が島内の全てを支配する体制を固め、サトウキビ栽培、製糖業による開墾、開発に成功する。 しかし北大東島に関しては、玉置半右衛門による南大東島の開墾、開発が進んでもなかなか開発に着手できず、1903年6月の奈良原繁沖縄県知事による大東諸島視察時はまだ無人島であった。北大東島が手つかずのまま放置されているため、玉置のもとで鳥島でアホウドリの羽毛採取に従事し、南大東島の開拓にも携わっていた広川勇之助が開墾権を取得しようと画策した。その動きを察知した玉置は1903年に玉置商会の社員を北大東島へ派遣し、島内にサトウキビを植えて開墾を行う意志を示した。
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