北大東島守備隊と鉱山
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「北大東島のリン鉱山」の記事における「北大東島守備隊と鉱山」の解説
戦況が悪化していく中で1944年3月、大本営は太平洋方面の防衛強化とアメリカ軍攻撃の恐れを考慮して、大東諸島の防衛体制を強化することとし、第85兵站警備隊を大東諸島に配置する決定をした。4月24日、第85兵站警備隊の第二中隊が北大東島に上陸、展開した。その後歩兵第36連隊を大東諸島に配置することが決定され、7月25日に北大東島に一個大隊が上陸、展開した。歩兵第36連隊の一個大隊が北大東島に展開されると、先に配置されていた第85兵站警備隊第二中隊は南大東島へ移動した。その後海軍部隊も9月7日に上陸、展開した。北大東島に配置された陸軍部隊は総勢1010人、海軍部隊は519人で、北大東島には海軍合わせて1500名あまりの兵士が配置されることになった。 実際、1944年3月には北大東島にリン鉱石を積み込みに来航した船が、潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没し、4月にもやはりリン鉱石積み込み船が魚雷攻撃を受け沈没し、ともに多数の乗組員が犠牲になっていた。陸海軍の北大東島守備隊が展開される中、1944年8月からは約1700名いたリン鉱山関係者、農民たちなどの島民の疎開が始まった。疎開はまず高齢者、子どもを優先し、その後病弱者、妊婦など要援護者、その後島に在住している必要性が無いと見なされる者という順番で行われたが、1500名あまりの兵士が来島した後の食糧問題もあって、1944年10月からは軍が必要とする者のみ在島が認められると方針が変更された。結局、半数以上の島民が疎開し、島民は約700名にまで減少した。 配置された守備隊の兵舎として、学校、リン鉱山従業員らの社宅、製糖工場、民家が徴発された。多くの残留島民は自宅を追われ、小屋掛けでの生活を余儀なくされた。また敵の来襲に備えて陣地の構築も急ピッチで進められ、残留島民も作業に駆り出された。敵が来襲した場合には、陸海軍、そして残留島民は一致協力して敵兵力を消耗させ、北大東島を死守することを目指した。 米軍からの攻撃は、1945年3月から空襲がたびたび行われ、艦砲射撃もあったものの、被害は比較的少なかった。
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