労働者統制
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二月革命の直後から、労働者は各工場で工場委員会を設立し、労働時間の短縮や賃金の引き上げを要求しはじめた。工場委員会は経営を統制する活動にも踏み込んだ。この「労働者統制」は四月テーゼの「統制」とは異なるものだった。後者は資本主義諸国で導入されていた統制経済の延長線上にあるもので、戦争による経済の崩壊を避けるためのものだった。しかし労働者統制はアナルコ・サンディカリズムの影響を受けたもので、資本家にたいする直接的な闘争だった。 レーニンは6月1日の工場委員会協議会のために「崩壊との闘争の経済的諸方策についての決議」を起草した。若干修正されて採択された決議は、「物資の生産と分配にたいする真の労働者統制」を主張し、それに参加する権利を工場委員会に与え、また金融・銀行業務にも労働者統制を及ぼさなければならないと主張した。そして最後に、「以上に述べたすべての方策は、全国家権力が労兵ソヴェトの手に移る場合にのみ計画的かつ成功裏に実行することができる」とし、四月テーゼの枠組の中に労働者統制を取り込んだ。 9月にレーニンが執筆した『さしせまる破局、それとどうたたかうか』は、戦争による経済の崩壊にたいする方策として、交戦諸国で実施されている方策をロシアでも実施することを主張した。その内容は、銀行の国有化、シンジケートの国有化、営業の秘密の廃止、経営者の業界団体への統合、消費の規制である。レーニンはこれらの方策を「革命的民主主義国家」が実施するのは社会主義への一歩だとした。10月に執筆した「ボリシェヴィキは国家権力を維持できるか?」は、大銀行を「社会主義を実現するためにわれわれに必要で、しかも、われわれが資本主義からできあがった形で引きつぐ『国家機関』」と位置づけた。 十月革命後の11月16日、臨時労農政府は「労働者統制令」を公布した。12月5日には「最高国民経済会議の設置に関する法令」を公布し、最高国民経済会議が労働者統制の活動を指導することを規定した。革命一周年の演説で、レーニンは労働者統制について次のように回想した。 われわれの最初のスローガンは労働者統制であった。われわれは言った。ケレンスキー政府のおこなったいっさいの約束にもかかわらず、資本は引きつづき国の生産をサボタージュしており、生産をますます破壊している。われわれは、いまや解体がせまっていること、およそ社会主義政府、労働者政府の第一にとらなければならない基本的な方策は労働者統制でなければならないことを、知っている、と。われわれは、わが国の工業全体にわたっていきなり社会主義を布告するようなことはしなかった。というのは、労働者が管理をまなびとり、労働者大衆の権威が確立されたときにはじめて、社会主義は形づくられ、確立されうるからである。〔……〕われわれは、これまでに成しとげられたものがわずかであることを知っている。労働者階級がこんなにも多くの障害とかせに妨げられているもっともおくれた、零落した国で、工業の管理をまなびとるためには、労働者階級は長い期間を必要とするということを、われわれは知っている。労働者がみずからこの管理に取りかかったということ、すべてのもっとも重要な工業部門でかならずや混沌とした、細分された、手工業的な、不完全なものたらざるをえない労働者統制からすすんで、われわれが全国民的な規模での工業にたいする労働者管理に近づいたということを、われわれはもっとも重要な、貴重なことであると考える。
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