労働者評議会の台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/26 09:41 UTC 版)
「オーストリア革命」の記事における「労働者評議会の台頭」の解説
革命に揺れる隣国ドイツと異なり、臨時連立政府と兵士評議会のもと平穏な状況が保たれていたオーストリアも、1919年に入って労働者評議会運動が急速に台頭したことから新体制に動揺が見られるようになった。2月中旬の憲法制定国民議会の選挙では社会民主党が比較第一党となったが、ブルジョワ自由主義勢力が過半数を占めていたため、農村地域を支持基盤とするキリスト教社会民主党との連立関係を継続した。またウィーンなど都市地域を中心に失業者が増大し食糧や物資不足に対する不満が高まったことなどを背景に、リンツの労働者評議会が政府とは独立した全国的ネットワークを形成しようとした。前年1918年の11月3日に結党され、当初はさほど大きな勢力ではなかった共産党も、この頃には労働者評議会に影響力を拡大しつつあった。 社会民主党は以上のような情勢を見て、労働者評議会を自党の影響下に取りこむことをめざし、全国評議会を組織するとともに、労働者を各企業の経営に参加させる「経営評議会」構想を打ち出し、傷痍軍人・遺族への給付金、年休制度導入、メーデーの休日化など当時としては革新的な一連の社会政策を実施した。さらに3月には「社会化準備法」を成立させ、新設された社会化委員会の委員長にはバウアーを就任させ、企業などの私的所有を国民・国家の所有に移管する「社会化」を推進し独自の社会主義を実行しようとした。
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