労働者と米騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 21:23 UTC 版)
一方、門司港での石炭輸出を支えていたのが、「ごんぞ」「ごんぞう」と呼ばれた沖仲仕であった。汽車で運ばれた石炭を艀に移し、それを沖待ちの巨大な汽船に届け、人力で運び上げる重労働であった。門司港は、入港船舶数に対し岸壁が足りなかったため、沖合に停泊した本船での荷役が多かった。1905年(明治38年)当時、門司市の人口4万4113人に対し、仲仕は1万3886人いたという。極めて低賃金であり、労働争議も多発した。門司港の場合、女性の沖仲仕が多いことも特徴であった。喧嘩と博奕は門司の名物と言われ、労働者の町では、日本刀やピストルが持ち出される乱闘事件も日常的にあった。 門司市では、1911年(明治44年)に紫川上流の企救郡中谷村福智渓を水源とする水道の給水が始まり、徐々に整備されていったものの、上下水道や住宅などのインフラの整備は人口急増に追い付かず、特に労働者層の衛生状態は悪く、コレラが度々流行して多くの死者を出した。 1918年(大正7年)7月、シベリア出兵を前にした米価急騰により富山県で米騒動が始まると、全国に飛び火し、門司では8月14日に始まった。米屋の売り惜しみに対する抗議で市民が米屋前に集まったことで本格化し、沖仲仕が合流して数千人に膨らんだ。門司市内の米屋のほとんど、呉服屋、酒屋、醤油屋などが襲撃を受けた。小倉第12師団が鎮圧に当たり、検挙者は200人ないし300人に上った。門司では、救護会ができて米価が安定したので数日後に収束したが、米騒動は筑豊の炭鉱地帯にも広がっていった。九州の労働運動・社会運動の源流となる出来事であった。米騒動後、内務省は、物価安定、治安維持のために各地に公設市場を作ったが、門司では1920年(大正9年)、陸軍兵器廠の跡地に老松町公設市場を設け、戦後の中央市場の原形となった。
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