労働者と管理者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 06:19 UTC 版)
「アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918)」の記事における「労働者と管理者」の解説
現在のアメリカ合衆国工場労働者の生活に比べ、19世紀アメリカ工場労働者の生活は容易くなかった。賃金はヨーロッパと比べて2倍だったが、労働条件は過酷でゆとりが無かった。1873年と1893年に国内を恐慌が覆い、賃金を下げ、高率の失業率と不完全雇用率を生んだ。 同時に全国の生産性を上げた技術の改良が継続的に熟練労働の需要を下げ、未熟練労働者の需要を増した。1880年から1910年までに前例の無いような1,800万人の移民がアメリカ合衆国に入り、仕事を求めたので、未熟練労働者の予備軍は常に成長を続けた。 1874年以前はこの国で事実上労働に関する規制が無かった。この年、マサチューセッツ州が女性と子供の工場労働者は1日10時間に労働時間を制限する最初の法律を通した。しかし、この件に連邦政府が積極的に関わったのは1930年代になってからだった。その時代まで労働条件は州や自治体の当局に任され、富裕な工業資本家に対するように労働者に対応できる役人はほとんど居なかった。 19世紀後半を支配し富と権力を巨大に集中させた「クローニー・キャピタリズム」(縁故資本主義)は、出来上がった制度に反抗した人々に対して断固たる対応を行った、人の言いなりになる司法官によって後押しされた。裁判官は当時行き渡っていた哲学に単に従っているだけだった。ジョン・ロックフェラーは、「大企業の成長は単に最も適応できるものが生き残ることである」と言ったと報告されている。「社会ダーウィン主義」として知られるこの考え方は、事業を規制しようという如何なる試みも種の自然進化を遅らせるだけのものであると主張する多くの利己的な者に支持された。 この産業主義の犠牲者に対する無関心によって生じたコストは大きかった。何百万もの労働者の生活と労働条件はお粗末なものであり、生涯貧乏から逃れる望みは僅かなものだった。移民労働者は混み合い不潔な賃貸住宅に住んでいた。工業化でアメリカの労働者の貧窮度を固定してしまっていることは、「百万長者の宮殿と労働者の小屋の対照」と言ったアンドリュー・カーネギーのような企業指導者ですら認めていた。カーネギーのその高貴な感覚にも拘わらず、その工場での労働条件は他より良いわけではなかった。1900年には既にアメリカ合衆国の労働に関わる死亡率は世界の工業化されたどの国よりも高くなっていた。工場労働者の大半は1日10時間(鉄鋼産業では12時間)働き、生活に必要な賃金の20%から40%少ないものしか得られなかった。この状況は1870年から1900年の間に2倍になっていた児童労働者の場合はさらに悪いものだった。
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