創作第三期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 14:40 UTC 版)
「カロル・シマノフスキ」の記事における「創作第三期」の解説
1917年の秋、ボリシェヴィキの一団がシマノフスキ家を急襲し、美術品は略奪され、カロルのピアノはおもしろ半分に池に投げ込まれてしまった。この事件はシマノフスキ一家を経済的、精神的に叩きのめした。カロルはショックのあまり音楽から遠ざかり、小説『エフェボス』を創作している(1939年の火事で焼失し現存しない)。 1918年にポーランドが独立を遂げると、その翌年にシマノフスキはカイロの音楽院からの招聘を断り、一家でワルシャワに移住した。この頃から彼は祖国の音楽に興味を持ち始めていたのだが、それを決定づけたのは、1921年パリでストラヴィンスキーと再会した時に彼がピアノで演奏した『結婚』に受けた衝撃であった。以降、シマノフスキはポーランド、特に南部のタトラ山地の民俗音楽に傾倒して行く。ここから彼の創作期は第三期に入る。彼は1922年以降ザコパネに別荘を借り、この地をたびたび訪れている。 1927年にシマノフスキはワルシャワ音楽院(1930年にワルシャワ音楽アカデミーとなる)の院長となった。彼は若い才能のある音楽家を育てるためにポーランドの音楽教育を根底から見直し、改革を行おうとするが守旧派と対立し、フラストレーションにさいなまれながら5年間を過ごした後、1932年辞任に追い込まれた。辞任後は収入を得るためにコンサート活動を行なった。1932年の交響曲第4番は自身を独奏者にすることを想定したピアノ独奏を有する交響曲となっている。しかし、コンサート・ピアニストとしては技術不足で、コンサートの回数は年々減ってゆき、それにつれ経済状態は困窮の度を増していった。それに追い打ちをかけるように肺結核が悪化し、転地療養のためにダボス、グラース、カンヌと各地を転々とし、最期は1937年3月29日にローザンヌで息を引き取った。 棺はポーランドに運ばれ、古都クラクフの「大天使ミカエルと聖スタニスワフの教会」の地下聖堂に安置された。この地下聖堂は1480年に他界した年代記作者ヤン・ドゥゴシュから2004年に他界したノーベル文学賞受賞者チェスワフ・ミウォシュまでポーランド歴代の芸術家や文人の棺が置かれており、誰でも見学・参拝できる。
※この「創作第三期」の解説は、「カロル・シマノフスキ」の解説の一部です。
「創作第三期」を含む「カロル・シマノフスキ」の記事については、「カロル・シマノフスキ」の概要を参照ください。
- 創作第三期のページへのリンク