初期 - イヤーエイク時代 (1985年 - 1992年)
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1985年、リヴァプールで、ミディ(ドラム)、ペク(ボーカル)、ポール(ベース)とビル・スティアー(ギター)の4人によりディスアタック (Disattack') が結成される。当時はディスチャージ に強く影響されたハードコア・パンクをやっていた。その後ディスアタックは解散し、それとは別に結成されたバンドにエレクトロ・ヒッピーズでサポート・ボーカルを務めていたジェフ・ウォーカーがベーシストとして加入、ビルの友達だったケン・オーウェン(別の前身バンドではボーカルだった)がドラムとなる。バンド名をカーカス (Carcass)と改名、音楽性もグラインド・コアに変わる。 1987年に『Flesh Ripping Sonic Torment』と呼ばれるデモを録音し、デモテープをノッティンガムのイヤーエイク・レコードに送り、イヤーエイクと契約を結ぶ。このデモではサンジヴという人物がボーカルを担当している。さらに翌年には2番目のデモ『Simphonies of Sickness』を録音、このデモはセカンドアルバムの元になっている。 1988年、イヤーエイクより1stアルバム『腐乱屍臭』(Reek of Putrefaction)がリリースされる。死体のコラージュを使ったジャケットの為、レコードを置かない店もあったが、イギリスのインディーチャートでは高い成績を得る事ができたらしい。またイギリスBBCラジオの人気番組「ピール・セッション」に出演した。 1989年にはコリン・リチャードソンをプロデューサーに迎えた2ndアルバム『疫魔交響曲』 (Symphonies of Sickness)をリリース、このアルバム以降はトイズファクトリーが日本盤を出すようになる。CD版には2ndアルバム『疫魔交響曲』の内容に加え1stアルバム『腐乱屍臭』の曲の一部が収録されていた(海外でも同仕様)。その後1stアルバム『疫魔交響曲』の初CD化に合わせて1996年に1stアルバムの日本盤が発売され、2ndアルバムはボーナストラックが外され『真・疫魔交響曲』と改題された。2ndアルバムリリース後、モービッド・エンジェル、ナパーム・デス、ボルト・スロワーとのヨーロッパツアー『グラインドクラッシャー・ツアー』も行っている。また「ピール・セッション」への2回目の出演も行った。 以前からライブ時のギターに厚みを持たせるため、二人目のギタリストが必要だと考えていたバンドは、1990年にスウェーデンの「カーネイジ」のギタリストだったマイケル・アモットをセカンド・ギタリストとしてカーカスに加入させた。マイケル・アモットは「ナパーム・デス」のオーディションを受けにイギリスに来た際、ビル・スティアーと知り合い、カーカスとのセッションを行ってもいたが、その時はスウェーデンに帰っている。この頃バンドの音楽性はグラインド・コアからデスメタルに変化しつつあったが、マイケル・アモットの加入により、よりデスメタル色が強くなった。また元々バンドが持っていたブルータルなデスメタルの要素にマイケル・アモットの流麗なギターが加わり、後のメロディック・デスメタルの原型が誕生しつつあった。その年のドイツツアーでは「アトロシティー」の前座を務めている。 再度コリン・リチャードソンをプロデューサーに迎えレコーディングを行い、1991年に3rdアルバム『屍体愛好癖』 (Necroticism - Descanting the Insalubrious)のリリースが行われる。コリン・リチャードソンは5thアルバムまでプロデューサーを務めることになる。アルバムの作成の途中、ケン・オーウェンが刑務所に送られるアクシデントが発生した(罪状は不明)。 1992年、カテドラル、エントゥームド、コンフェッサーとのヨーロッパツアー『ゴッズ・オブ・グラインド・ツアー』を行い、ツアーに合わせてミニアルバム『ツール・オブ・トレード』をリリースした。このツアーの様子は、先のグラインドクラッシャー・ツアーと共に、ビデオ版の『ウェイク・アップ・アンド・スメル・ザ...』で見ることができる。
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