初期の展望車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 09:35 UTC 版)
1880年代にアメリカの鉄道で車両間の連結部分に可動式の渡り板を渡し、蛇腹状の幌で覆った貫通路構造が考案された。この「ベスティビュールカー(貫通式車両)」は、乗客が安全に車両間を往来できる利便性から、1890年代までに全米の鉄道に広く普及した。 車両間貫通路が整備されたことで、寝台と喫煙室、供食設備を1両に収めた車両を何両か連結する列車の代わりに、独立したラウンジカー、食堂車などを備えた列車を運行することが盛んになった。長距離を移動する際に一等旅客の憩いの場となるラウンジは、列車の最前部や最後部に設けられた。 この時、列車の最後部に設けられたラウンジに、旅客誘致の目玉設備として設けられたのが展望室である。 1890年代から1920年代ごろまでのアメリカの展望車の形状は、日本の展望車とよく似ている。車両の一端、乗降用のデッキを少し広くした程のスペースが、景色を展望可能なオープンデッキとされた。ここには転落を防ぐための柵が取り付けられ、隣接する客室が展望室となっていた。この構造は日本の展望車でも踏襲されていた。 日本の展望車との違いは、21世紀初頭の日本の寝台特急におけるロビーカーと同様、展望室が乗車した各等旅客のフリースペースとなっていたことである。展望車車内のうち展望室を除いた残りのスペースは、開放式寝台ないし個室寝台で構成される客室とされるか、軽食用の供食スペースに充てられた。 オープンデッキ部分が気軽に利用されていたのも日本との相違点の一つで、椅子を置き、走行中にカードゲーム等をして楽しんでいる乗客の写真や、家族並んでの記念写真等が残されている。日本からの旅行客もその例外ではなく日本人の視察団の記念写真も存在する。 無論、展望車を連結した列車は一等運賃や特別料金が要求されるプルマン寝台車で構成された優等列車が多く、利用に当たってはある程度の出費を必要としたが、それは一般旅行客の利用を妨げるほどの高値ではなかった。なお、一部の車両には密閉式の展望車も存在した。 またアメリカの鉄道には企業幹部や資産家が貸切使用する客車「プライベートカー」が多数存在したが、その中にも展望室を設けたものが存在する。古い文献や写真、記録映画などで、政治家の地方遊説の際に描かれる展望車両は、多くはこの種の車両である。 なお、2009年1月17日バラク・オバマ次期大統領(当時)はフィラデルフィアから特別列車でワシントン入りしたが、その最後尾には1930年プルマン社製の展望車「ジョージア300」(Georgia 300)が連結され、オバマは展望デッキから周囲にこたえた。
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