初期の居住者と中世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/07/13 14:46 UTC 版)
「バタク (ブルガリア)」の記事における「初期の居住者と中世」の解説
歴史的資料の欠如のため、バタクの正確な起源は知られていない。かつては、チェピノ渓谷(Чепинска котловина / Chepino Valley)で16世紀に起こったイスラム教への集団強制改宗から逃れるためにブルガリア人が移り住んだのが起源であると見られていた。しかし、バタクの集落はそれよりもはるかに古いため、この説は棄却されている。この説の裏づけとされたのは、バタクの人々によって建造されたクリチム修道院(クリチム生神女修道院)の泉に刻まれた1592年の年号や、バタクの人々についての言及のある、封建領土についてのスレイマン1世(1520年-1566年)の命令書などであった。 バタクの呼称もまた、その起源は知られていない。伝説によると、ツェピノ族(Tsepino)の首領バトイ(Batoy)に由来するとされる。歴史学者のヨルダン・イヴァノフ(Йордан Иванов / Yordan Ivanov)やヴァシル・ミコフ(Васил Миков / Vasil Mikov)らは、バタクが11世紀から13世紀にかけてのクマン人の集落ポトク(Potok)であったと考えている。
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