出自・前半生
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福井県今立郡服間村(現越前市横住)で、父・齊と母・マツエの長男として生まれる。服間尋常小学校卒業後、福井青年師範学校に進学し、後に妻となる根谷ひなをと出会う。1949年(昭和24年)、師範学校本科を卒業し、明治大学政治経済学部政治学科に進学するが、1年後の1950年(昭和25年)、東京大学文科一類を受験し合格。在学中、矢崎新二、岩崎寛弥、佐々淳行、粕谷一希、福留民夫、池田富士夫などと親交を深め、学生研究会土曜会のメンバーとして活動し、芦田均などの政治家や大山岩雄などの言論人の知遇を得る。1952年(昭和27年)に国連アジア学生会議の日本代表としてインドとビルマを訪問し、このときの体験をもとに大林健一の筆名で『独立インドの理想と現実』と題する小冊子にまとめて刊行した。 1954年(昭和29年)、東京大学法学部政治学科卒業後、佐伯喜一の知遇を得て、保安庁保安研修所教官となる。1957年(昭和32年)、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス大学院修了。1960年(昭和35年)、米国ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究所(SAIS)に留学。客員研究員として滞在中、マイク・マンスフィールド、ディーン・アチソン、ウォルター・リップマン、ウォルト・ロストウらと面識を持つ。 1961年(昭和36年)より防衛庁防衛研究所所員。1966年(昭和41年)、創立に貢献した京都産業大学より法学部教授として招聘され、同大学の世界問題研究所所員を兼任した。
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出自・前半生
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『黒田家譜』『江源武鑑』などによると、若い頃は山陽地方随一の商業都市として繁栄していた備前国の福岡(現・岡山県瀬戸内市長船町)に在住していたと伝わる。その後、大永5年(1525年)に備前が乱れると播磨国に移り、姫路の広峯神社の神官・井口太夫と共謀して目薬を売ることで財を成し、播磨の国人になったという。はじめ龍野城主・赤松政秀に仕えたが、ほどなく御着城主・小寺政職に主を替え、子の職隆が重用されて姫路城の城代となったとされる。ただし実際は、重隆自身の小寺家臣としての発給文書が残っているため、重隆自身も小寺氏重臣として仕えていた。また『播磨御着郡誌』によると、子の職隆は小寺政職の祖父・政隆の養女を娶って政隆の養子となっていたとしている。 妻は妻鹿氏で、永禄2年9月22日(1559年11月1日)に没している。
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