出会いからメジャーデビューまで(アマチュア時代)
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「サザンオールスターズ」の記事における「出会いからメジャーデビューまで(アマチュア時代)」の解説
1972年、松田弘が大森隆志にドラムを貸す形で2人が出会う。1974年、青山学院大学に入学した桑田佳祐と関口和之は、フォークソング・サークルで知り合い、ロックバンド「温泉あんまももひきバンド」を結成した。翌年の1975年、青山学院大学に大森と原由子が入学し、桑田や関口と同じフォークソング・サークルに入部した。 桑田のバンドは、「温泉あんまももひきバンド」から「ピストン桑田とシリンダーズ」に改名を行い、大森は次第に桑田のバンドに興味を持つようになり、練習現場にしばしば現れるようになった。原が桑田のバンドに参加し、バンドは「青学ドミノス」「脳卒中」「桑田佳祐とヒッチコック劇場」と名前が変遷した後に「サザンオールスターズ」に改名した。 桑田が望んでいた「サザンオールスターズ」は長く持続せず、メンバーが頻繁に入れ替わっていた。大森は桑田に松田を紹介するなどして、1977年3月に桑田、大森、原、松田、天野和平による「サザンオールスターズ」でヤマハ主催の音楽コンテスト「EastWest」に申し込んだ。しかし、予選のテープ審査の時期に天野が脱退し、入れ替わりで関口が加入した。本選では入賞を果たし、桑田がベストボーカル賞を獲得した。ちなみにこの際には松田が欠席し、ピンチヒッターとして小野哲夫がドラムを担当した。本選終了直後にセミプロの野沢秀行がバイト先で知り合った大森の勧誘を受ける形でなし崩し的に加入した。 レコード会社はビクター音楽産業(現・JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)に決まったものの、芸能事務所がなかなか決まらなかった。ビクターのディレクターの高垣健が「女呼んでブギ」のカセットを持って事務所周りをしていた際、当時は新興事務所のアミューズの社長大里洋吉が興味を持ち、練習スタジオを訪問する。この際に「勝手にシンドバッド」を披露し、大里が「この男をテレビに出したら面白い」と考えたことから契約が決まったと大里は話している。アミューズは原田真二の個人事務所的な存在として1977年に設立された会社だったが、大里が解散直前のキャンディーズのプロデュースに専念し事務所の仕事から離れていた時期に、ロック志向を強めていた原田がテレビ的な売り出し方を嫌うようになり、大里が事務所の仕事に復帰した直後に移籍してしまったという。サザンとの出会いはこの事件の2週間後であり、もし原田が移籍してなかったらサザンオールスターズをやる余裕はなかったと大里は話している。 一方、バーニングプロダクション社長の周防郁雄は、ビクターのディレクターである東元晃から「勝手にシンドバッド」など5曲聞かされ、気に入ったが、ホリプロ社員だった奥田義行が井上陽水と立ち上げた「りぼん・なかよしグループ」に所属することになっていたため、5000万円払って譲ってもらい、当時出資していたアミューズの社長である大里に紹介し、アミューズ所属となったと説明している(この経緯は大里は知らないという)。このことから、「勝手にシンドバッド」から「いとしのエリー」までの5曲の版権はバーニングパブリッシャーズが保持している(アミューズから音楽出版権を返すよう言われたため、それ以降の作品ではアミューズが保持している)。 デビューに向けて着々と準備が進む中、メンバー全員が他のレコード会社の契約書にサインしてしまうという事件があったが、ビクター関係者が出向いて話を収拾した。この時期はまだ学生バンドの思い出作り的な意識があったという。桑田はこのころはまだサザンのリーダーではなかったが、プロダクションとの契約にあたってメンバー全員が大卒初任給をもらえるよう交渉をした。
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