出会いと深まる関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:07 UTC 版)
太宰と山崎富栄が初めて出会ったのは1947年3月27日のことであった。両者を引き合わせたのは山崎富栄の美容院の同僚であった。同僚は三鷹の町の屋台で飲んでいる際にたまたま太宰と知り合った。同僚から太宰の話を聞いた山崎富栄は、年齢的に弘前高等学校の在学中に亡くなった兄と在学時期が被っている可能性に気がついて、仲の良かった兄の話を聞けるかもしれないと思い、太宰を紹介するよう頼み込んだと伝えられている。 山崎富栄はたちまち太宰の虜になった。富栄は原稿用紙に太宰との関係を記した日記を書き残しているが、これは太田静子の日記をもとに「斜陽」を執筆したように、自分に近づいてきた山崎富栄を題材として小説を書こうと画策し、日記を書くように勧めた可能性が指摘されている。 太宰に魅かれた山崎富栄としても、太宰が妻帯者で子どももいることに躊躇しなかったわけではなかったが、結局太宰の愛人となる。前述のように山崎富栄は夜、進駐軍専用のキャバレー併設の美容室で働いており、外国製のタバコや洋酒を入手しやすい立場にいた。戦後の混乱期、日本製の質の良いタバコや洋酒が無い中で、入手した酒やタバコを、酒好きかつ愛煙家でもあった太宰に提供していたため、山崎富栄の存在はありがたかった。 やがて太宰は執筆や来客との応対等に、山崎富栄の野川アヤノ宅借間を利用するようになった。そのような中で山崎富栄は結核で喀血を繰り返していた太宰の看護師役を担うようになっていく。太宰自身、山崎富栄のことを「私の看護婦」と呼んでいた。太宰の身を案じた山崎富栄は、人気作家の太宰のもとを尋ねる編集者らを選別するようになり、太宰のことを独占していると言われるようになる。このように山崎富栄は太宰の秘書役を務めるようにもなった。山崎富栄は1947年秋には仕事も辞め、太宰の愛人兼看護師兼秘書役に専念することになり、献身的に太宰に尽くす姿から、母親ないし乳母の役目も果たしていたとの評もある。山崎富栄自身、太宰の乳母であり、とみえであり、姉にもなり、サッちゃんともなると語っている。 しかも山崎富栄は、太宰の飲食費や薬代、来客の接待費用等に手持ちの貯金を取り崩しており、1947年12月には山崎富栄の蓄えは底を尽きつつあった。愛人兼看護師兼秘書であり金銭的な面でも恩恵を受けていた太宰にとって、山崎富栄は手放しがたい女性であった。
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