再開発と小真木鉱山としての再生とは? わかりやすく解説

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再開発と小真木鉱山としての再生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/27 00:19 UTC 版)

白根金山」の記事における「再開発と小真木鉱山としての再生」の解説

江戸時代末期白根銅山はほとんど廃山の状態で、わずかに鉱滓処理したり、弁柄採取する程度になっていた。明治期になって新し技術での開発が行われた。明治9年東京居住の辻金五郎鉱区設定し明治13年頃に旧駒木金山跡と考えられる山頂部の小真木付近において土鉱を発見した。これは黒鉱風化して銀分に富んだ土状になったのである明治15年ドイツ留学から帰国した大島道太郎迎い入れキス法によるピルツ溶鉱炉設置された。当時としては最も斬新な洋式機械持って整備され鉱山となった。この新装開業式明治18年5月行われた安倍恭介は「芝居角力花火等にて見物人接待あり。諸商人見物人夥しく群集の由なるに折悪しく風雨にて甚寒く殊に宿屋一軒より無之趣にて諸人大難渋…」と記している。この結果産銀量も豊盛となった。しかし、数年にして鉱量減っていき、辻は明治21年6月20日小真木鉱山岩崎弥之助譲渡した三菱資本となってからは銅鉱主体として、金・銀・鉛・亜鉛産出した昭和7年頃に黒鉱鉱床発見され露天掘りが行われた。後年地下鉱脈堀りでの産出した昭和12年頃には金が多く産出し佐渡42キロ、小真木38キロと言われた。これは佐渡や小真木で金が多く産出したことを言ったのである鉱山盛衰と出鉱量従業員激しく増減した。大正3年頃は従業員130程度その後鉱山不況になり大正8年では従業員16名、昭和6年頃は20名弱ほどであった黒鉱発見された後の昭和11年12年では採鉱350程度運搬350人、その他で合計800程度働いていた。昭和14年では鉱山職員19名、一般鉱員480程度、その他軍隊入隊していた者が90名いた。地区には小学校(1~4年生までで、その後毛馬内小学校や、吊橋ができてからは末広小学校通った)や、鉱山病院協和会館(月に1~2回の映画があった)、集会所囲碁将棋麻雀などの懇親の場)などがあった。運動場テニスコートもあり、さらに戦時中銃剣術相撲なども行われ各種スポーツ盛んに行われた。寺は4ヶ所もあった。白根竪坑ができたころからは鉱石ズリ捨場として使われ改葬されなかったので埋められてしまった墓石もあった。毛馬内誓願寺石野集落から移った伝わっており、小真木千軒石野件とも言われ鉱山通勤範囲内石野家屋が沢山あって栄えた

※この「再開発と小真木鉱山としての再生」の解説は、「白根金山」の解説の一部です。
「再開発と小真木鉱山としての再生」を含む「白根金山」の記事については、「白根金山」の概要を参照ください。

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