再開発と小真木鉱山としての再生
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「白根金山」の記事における「再開発と小真木鉱山としての再生」の解説
江戸時代末期、白根銅山はほとんど廃山の状態で、わずかに鉱滓を処理したり、弁柄を採取する程度になっていた。明治期になって新しい技術での開発が行われた。明治9年に東京居住の辻金五郎が鉱区を設定し、明治13年頃に旧駒木金山跡と考えられる山頂部の小真木付近において土鉱を発見した。これは黒鉱が風化して銀分に富んだ土状になったものである。明治15年にドイツ留学から帰国した大島道太郎を迎い入れ、キス法によるピルツ式溶鉱炉が設置された。当時としては最も斬新な洋式機械を持って整備された鉱山となった。この新装開業式は明治18年5月に行われた。安倍恭介は「芝居、角力、花火等にて見物人共接待あり。諸商人見物人夥しく群集の由なるに折悪しく風雨にて甚寒く、殊に宿屋も一軒より無之趣にて諸人大難渋…」と記している。この結果産銀量も豊盛となった。しかし、数年にして鉱量が減っていき、辻は明治21年6月20日に小真木鉱山を岩崎弥之助に譲渡した。 三菱資本となってからは銅鉱を主体として、金・銀・鉛・亜鉛を産出した。昭和7年頃に黒鉱鉱床が発見され露天掘りが行われた。後年、地下鉱脈堀りでの銅を産出した。昭和12年頃には金が多く産出し「佐渡の42キロ、小真木の38キロ」と言われた。これは佐渡や小真木で金が多く産出したことを言ったものである。鉱山の盛衰と出鉱量で従業員は激しく増減した。大正3年頃は従業員は130人程度、その後鉱山不況になり大正8年では従業員は16名、昭和6年頃は20名弱ほどであった。黒鉱が発見された後の昭和11年~12年では採鉱350人程度、運搬350人、その他で合計800人程度が働いていた。昭和14年では鉱山職員が19名、一般鉱員480人程度、その他軍隊に入隊していた者が90名いた。地区には小学校(1~4年生までで、その後は毛馬内小学校や、吊橋ができてからは末広小学校に通った)や、鉱山病院、協和会館(月に1~2回の映画があった)、集会所(囲碁、将棋、麻雀などの懇親の場)などがあった。運動場やテニスコートもあり、さらに戦時中は銃剣術や相撲なども行われ、各種スポーツが盛んに行われた。寺は4ヶ所もあった。白根竪坑ができたころからは鉱石のズリ捨場として使われ、改葬されなかったので埋められてしまった墓石もあった。毛馬内の誓願寺は石野集落から移ったと伝わっており、小真木千軒、石野万件とも言われ、鉱山通勤範囲内の石野は家屋が沢山あって栄えた。
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