全呉工廠結成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/27 07:57 UTC 版)
寺田 上村 谷山 永井 土田 大橋 田代 山口 大森 1933年(昭和8年)明治神宮大会優勝時の呉工廠メンバー。 1933年(昭和8年)、その前年に全日本選手権で初優勝した呉水雷の豊島明男は更なる強豪チームをつくりあげようと、砲熕部・水雷部・製鋼部などから選手を選抜した全呉工廠「呉工廠排球チーム」を結成し全国大会での優勝を目指した。選手の殆どが呉工廠見習工出身であり、豊島は彼ら若手を鍛え上げた。結果、同年の明治神宮大会でいきなり優勝、以降も毎年必ずタイトルを獲るチームとなった。なお下記や#戦績からも分かる通り、元からあった個別のチームもそのまま活動している。 このころ神戸商大は優秀な選手が卒業し社会に出たことや附属商学専門部を廃止(神戸高商の廃止)したことによりチーム力が低下し、代わって王座に座ったのがこの呉工廠である。また学生界には、日本體操(日体大)・東京帝大(東大)・八高(名古屋大)・京都帝大(京大)なども台頭し、その中で学生王者となっていったのが早稲田大であり、以降呉工廠は2大大会を早稲田と競うことになる。早稲田大学バレーボール部の創設者は、広島二中(現広島観音高校)出身の赤城功であった。 特に早稲田との名勝負となったのが1934年(昭和9年)全日本選手権大会決勝である。1セット目を呉工廠が21-19でとった後、2セット目デュースとなり23-25で早稲田がとり、最終3セット目もデュースの末22-20で呉工廠が勝利し優勝した。この試合は双方とも好打好守の応酬で白熱した好ゲームとなり観客を熱狂させた。のちの試合では早稲田に雪辱を果たされることにもなった。 同1934年第10回極東選手権競技大会が開催され、呉工廠から谷山・土田弘・大橋太郎の3人が全日本に選出された。この大会には、広島二中クラブの長崎重芳、広島二中~早稲田大学に進んだ赤城功、山口祚一郎、広島二中~広島専売局に入局した温井政記も全日本に選出され、13人中7人が広島出身者で占められた。 齋藤 西川兄 中畑 筒井 土田 森田 西川弟 瀬戸 川口 1942年(昭和17年)国民錬成大会(明治神宮大会)優勝時の呉工廠メンバー。同年の全日本選手権で準優勝した試合には齋藤・中畑・森田が出ていない。 1935年(昭和10年)以降になると男女とも実業団チームの台頭が目立つようになり、呉工廠はその筆頭として覇権を争った。 1937年(昭和12年)から1939年(昭和14年)まで呉工廠バレーは活動を自粛している。これは日中戦争へ突入し時局が悪化したためであり、呉工廠の選手も召集され戦地へと向かっている。他の実業団も同様であり、1937年/1938年全日本選手権山陽地区予選では男女とも全チーム辞退している。一方で呉で行われた大会には出場しており、1937年全日本選手権が終わった後に開催された第6回西日本選手権大会は呉砲熕と呉水雷で決勝が行われている。ちなみに、1937年11月呉工廠で”大和”起工1940年(昭和15年)8月進水、つまりバレーチームが活動自粛していた時期に大和が建造されていたことになる。 1940年(昭和15年)、活動を再開し全国大会へ出場、明治神宮大会決勝で早大と対戦し準優勝に終わる。1941年(昭和16年)太平洋戦争が始まるも明治神宮大会は引き続き行われ、1942年(昭和17年)国民錬成大会と改名した大会において呉工廠は3度目の優勝を飾ることになる。
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