優勝への挑戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 09:53 UTC 版)
「ジョン・ストックトン」の記事における「優勝への挑戦」の解説
1990年代に入る頃には、ストックトンとマローンの選手としての評価は大いに高まっていた。二人は1992年バルセロナオリンピック、1996年アトランタオリンピックではドリームチームに選出され、金メダルを獲得している。 ガードの選手層が厚かったこの時代のNBAにあって、ストックトンは毎年のようにオールNBAチームに選ばれた。特に1994年と1995年にはオールNBAファーストチームに選出されている。 しかし、チームはなかなか優勝に近づくことができず、ようやくチャンスが巡ってきたのは1997年だった。ジャズはカンファレンス・ファイナルでヒューストン・ロケッツと対戦。ジャズが王手をかけた第6戦の試合終了直前、100対100の同点という場面でストックトンが放った3ポイントシュートはチャールズ・バークレーの頭上を超え、終了のブザーと同時にバスケットに沈んだ。普段寡黙なストックトンが初めてと言っていいほど喜びを爆発させる仕草を見せ、ジャズはチーム史上初のNBAファイナル進出を決めた。試合後、バークレーは「ジョン・ストックトンは純粋な意味で、これまでで最高のポイント・ガードだ」「このシリーズでのベスト・プレイヤーは、まちがいなくジョン・ストックトンだった」と賛辞を送っている。 ファイナルの相手はシカゴ・ブルズだった。アウェイでの初戦は、ストックトンはプレイオフ自己ワーストとなる7ターンオーバーを犯すなどの不調もあり接戦を落とした。続く第2戦も落としたが、ホームのソルトレイクシティに戻った第3戦をジャズはものにする。 第4戦でストックトンは、NBAファイナル史上に残る名プレイを見せた。ブルズが71対66とリードした場面の残り2分20秒、ストックトンは3ポイント・ラインから2、3フィート離れた位置での3ポイント・シュートを決める。さらに残り2分を切ったところでストックトンはマイケル・ジョーダンからボールをスティールし、ジョーダンにファウルされたあとのフリースローも決めている。残り1分3秒から残り時間1分、72対73でジャズが1点を追う展開では、ジョーダンのシュートミスをストックトンがリバウンド。直後にそのままコートの反対側まで放ったパスは、ジャンプしたジョーダンの手の先をかすめ、カール・マローンに届きマローンがレイアップを決め、ジャズは逆転に成功。ブルズはその後追いつけず、シリーズは2勝2敗とタイになった。 勢いにのるジャズは続く第5戦でも猛攻を見せ、一時、16点差の大量リードを奪う。しかし、ブルズが巻き返し、試合は終盤までもつれる。85対85で残り25秒、ジョーダンに勝ち越しの3ポイントシュートを決められ、ジャズは接戦を落とした。この日、ジョーダンは体調不良だったが、それでもジャズのディフェンスは止められず38点を奪われた。シカゴに戻っての第6戦も試合は接戦となったが、ジャズは86対90で敗れ、2勝4敗で優勝を逃す。ストックトンはブルズのダブルチームに苦しみ、第5戦、第6戦とも5アシストしか上げることが出来なかった。試合後、スコッティ・ピッペンは「これまで戦ってきた相手の中で一番タフなチームだった」とジャズとの激戦を振り返った。 翌1997-98シーズンは開幕前に左膝遊離軟骨除去手術を受け、開幕から18試合欠場したが、2年連続でNBAファイナルに進出し再びブルズと対戦。このシーズン、ジャズはホームコートアドバンテージを得ていたものの、ホームでの第2戦を落とし、アウェイでの第3戦は大敗を喫し、第4戦にも敗れてしまう。ホームに戻った第5戦は勝利するが、第6戦はジョーダンを止められず、優勝を果たせずに終わる。 この頃にはストックトンとマローンは30代後半になっていた。ウェスタン・カンファレンスではサンアントニオ・スパーズやロサンゼルス・レイカーズが台頭しており、以降NBAファイナル進出を果たすことはなく、2003年5月2日に引退を表明した。 2004年11月22日にジャズの本拠地、デルタ・センターで引退セレモニーが開かれ、彼の背番号「12」はジャズの永久欠番となった。また現在、デルタ・センターの前には、彼の雄姿のブロンズ像が設置されている。
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