作風の確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 08:19 UTC 版)
尹は西ドイツに追放され、韓国国内で尹の音楽は演奏を禁止された。1969年から1970年までハノーファー音楽大学に勤め、1971年に西ドイツに帰化した。その後祖国統一汎民族連合のヨーロッパ本部議長を務めるなど韓国の民主化運動にも力を貸した。1980年の光州民主化運動の動静を聞くと、交響詩「光州よ、永遠に」を書き翌年発表した。作品活動を続けながら、たびたび北朝鮮を訪れた。1982年から毎年北朝鮮では尹伊桑音楽祭が開催され、韓国でも尹の音楽が解禁された。 「傷ついた龍」などのインタビューでも何度となく触れたのが、韓国の民俗音楽に基づく「主要音」と呼ばれる技法である。十二音技法ではすべての音が同等になるため、テンションが平等のままで推移する。尹はこれに「主要音」という概念を導入し、12の音のどれかに重力を与えることで、一本の旋律線に個性を与えたのである。しかも、1970年代は前衛の停滞期であり旋律の復権が各方面から叫ばれたため、尹の作風はその時代の波に完全に乗ることになった。彼はすでに50歳を過ぎていた。 1977年から1987年までベルリン芸術大学教授として在職し、作曲科教授として細川俊夫、嶋津武仁、古川聖、三輪眞弘、タデウシュ・ヴィエレツキ、ベルンフリート・E・G・プレーべなどの弟子を育てた。アジア人の作曲の教授にヨーロッパ人の弟子がついたのは、ドイツ全体では尹がはじめてである。韓国人の弟子は姜碩煕(カン・スキ)が挙げられる程度である。 晩年にはまた、プフォルツハイムやシュトゥットガルト、ブレーメンなどでも作曲講習会を開き、孫弟子たちの育成にも熱心であった。プフォルツハイムで行われた講習会にはイ・ギュボンが参加しており、彼はその数年後に入野賞を受賞した。1980年代は「全人類に訴える」ためにオクターブや協和音程も躊躇なく使われているが、作曲法が変更されていないためヴァイオリン協奏曲第3番のような死の直前の作品ですら朝鮮半島由来の強烈な旋律は健在であった。
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