住吉・天王寺の戦い
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幕府側は、細川顕氏・佐々木氏頼の軍に、山名時氏・大友氏泰の軍を増援として送り、本腰を入れて南朝を討伐することに決定した。9月21日、足利直義は御教書(命令文)を発し、南朝討伐を呼びかけた(『野上文書』諸家文書纂十所収(大友氏泰書状貞和3年10月15日))。島津播磨家の武将の島津忠兼も時氏の傘下として戦うように命じられた(『嶋津文書』二「色川本」)。10月1日、時氏らは楠木氏の本拠である東条(大阪府富田林市南東端)を制圧目標として発向した(『師守記』)。 ところが、東条制圧という大きな目標を掲げた割には、特段大きな戦いが起きないまま、一ヶ月以上が過ぎた。10月半ばには、氏泰が野上資親に討伐軍への参集を命じるなどしている(『野上文書』前掲文)。藤田精一は、この遅々とした行動について、幕軍は正行を極度に警戒していたからではないかと推測している。 両軍の睨み合いが続く中、正平2年/貞和3年11月26日(1347年12月28日)、ついに住吉・天王寺の戦いの火蓋が切られた。住吉(大阪市住吉区住吉)および天王寺(大阪府大阪市天王寺区南部から阿倍野区北部)で両軍は激突。幕府第一軍の大将である細川顕氏は、大した戦いもしないまま遁走した。幕府第二軍の大将である山名時氏はしばらく踏みとどまったが、数人の弟を殺され、自身と息子(山名師義)も手傷を負うという壊滅的な被害を受け、ついに撤退した。『太平記』ではやはり長い物語があるが、史料では以下のような簡潔な記録しかなく、詳細な戦闘経過は不明である。しかし、藤田精一は下記『師守記』の後半部分を特に指摘し、この出来事が北朝に非常な衝撃を与えたのは確かであるとしている。 『和田文書』「和田助氏軍忠状」「一 同十一月廿六日、住吉天王寺両所合戦、進先陣致忠功畢、」 『園太暦』「〔河州凶徒出張合戦事〕十一月廿七日、天晴、今朝彼是云、昨日河州凶徒襲来、天王寺并堺浦合戦、陸奥守顕氏不及幾合戦引退、前伊豆守時氏、尽心相戦、終舎弟両三人同所打死、時氏父子被疵引退、武家辺騒動云々、」 『師守記』九「十一月廿七日乙丑、天晴、今朝聞昨日於天王寺并住吉有合戦、自南方押来云々、軍勢悉引京都云々、今夕打死并被疵輩不知数云々、以外事也、為之如何、」 また、14世紀後半に編纂された『尊卑分脈』によれば、戦死した時氏の舎弟のうち一人は三河守山名兼義という人物だったという。 なお、延元5年/暦応3年(1340年)2月、後村上天皇は河内国小高瀬荘を観心寺に引き渡す綸旨(命令)を下していたが、正行はこの年の12月15日になってやっと、同国守護代の和田左衛門尉に命じ、7年ごしでこの綸旨を施行している。顕氏を破って同国を平定したことで、国内の整備に着手できるようになったと考えられる。生駒孝臣は、一瞬ではあるが12月は正行にとって平和を過ごすことが出来た時期だったかもしれないとしている。
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