伊吹派時代
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2005年9月15日、郵政民営化法案に賛成した会長代行の伊吹が派閥の次期代表に内定したが、派内に反発の声があり、正式就任は見送られた。同年12月14日に反対していた島村を名誉会長に棚上げすることで、伊吹の正式な会長就任の運びとなった。伊吹らは「亀井派」のイメージを払拭するため、平沼が命名した「志帥会」の名称を変更することも検討したが、派内の反発もあり断念した。 2007年3月15日、名誉会長だった島村が派閥を退会。これは、亀井の離脱以来、派内における主導権争いにおいて島村が伊吹と対立していたことや、島村が郵政解散に反対していた経緯から、「刺客」として選挙を戦った同派の西川京子や鍵田忠兵衛との間に確執が生じていたことなどが原因と見られている。 同年9月の自民党総裁選において、伊吹派は古賀派や町村派と連携して麻生派を除く八派閥で福田康夫支持を固め、「麻生包囲網」を敷いた。しかし、伊吹派からは麻生太郎の総裁候補推薦人を5人も出したため、伊吹派は福田支持で固まっていない派閥と見られた。なお伊吹派の所属議員で麻生支持を明確にした議員は28人中20人であった。9月24日、伊吹が新総裁・福田の下で幹事長に就任。志帥会からの幹事長輩出は派閥創設以来初で、中曽根派・渡辺派・旧渡辺派時代を含めても3人目である。幹事長就任に伴い、伊吹が形式的に派閥を離脱したため、中川昭一が会長代行に就任した。 伊吹は福田康夫改造内閣では財務大臣に就任したが、わずか1ヶ月余で福田は首相を辞任。5人が立候補した2008年の自民党総裁選では、伊吹派は幹事長・麻生太郎の支持を派閥単位で決定。麻生の盟友であった中川がいち早く麻生支持を表明し、同年9月4日の伊吹派役員会でその旨が確認された。麻生内閣の発足に伴い、伊吹に代わり中川昭一が財務大臣に就任した(後に辞任)。 2009年の第45回衆議院議員総選挙では次期会長候補の筆頭だった中川ら派閥メンバーの落選が相次ぎ、派閥領袖が苦戦する中、会長である伊吹も京都1区で敗れ、比例近畿ブロックで復活当選することとなった。選挙後、北海道7区で初当選した伊東良孝が加入した。 総選挙での惨敗を受け、派閥の勢力は大幅に縮小され、さらに中川が同年10月に急逝。こうした状勢の変化を受け、2009年の総選挙での当選者が会長の二階俊博1人だった保守新党の流れを組む二階派との合併が模索された結果、11月5日を以て二階派の二階俊博、泉信也、鶴保庸介の3人が伊吹派へ合流した。伊吹は派閥の名称を変更しなかったため、党名の維持を主張した。2010年1月、古屋圭司が議員グループのぞみへの参加を表明して休会し、事実上伊吹派を離脱した。2010年の第22回参議院議員通常選挙に泉が出馬せず、政界を引退。新たに2009年の総選挙で落選し、参議院に鞍替えして出馬した片山さつきが当選後、加入した。同年8月には中曽根弘文が自民党参議院議員会長選挙への出馬を表明。「脱派閥」を掲げての出馬であるため、中曽根は伊吹派を離脱した。 2011年5月12日、無所属の中村喜四郎が無所属のまま特別会員として入会したものの、自民党入党は見送られた。
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