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伊原宇三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/16 06:58 UTC 版)

伊原宇三郎

伊原 宇三郎(いはら うさぶろう、1894年10月26日 - 1976年1月5日)は、日本の美術家。国内外で活躍した洋画家。古典主義風の重量感のある裸婦像など、数多くの人物画を制作した。またパブロ・ピカソに傾倒し、著書を著して日本にピカソブームを巻き起こした。徳島県徳島市出身。

経歴

1894年(明治27年)伊原安蔵・カメの三男として生まれる。大阪に出て今宮中学校折口信夫に学び影響を受けた。1916年大正5年)東京美術学校西洋科に入学、藤島武二に学ぶ[1]

1917年(大正6年)、在学中に光風会第5回展覧会、太平洋会第14回展覧会に出品して入選。同年この頃から2年半にわたり、月刊誌「家庭料理講義録」に当時有名だった榎本小太郎の料理を表紙、口絵挿絵に描く。1920年(大正9年)満州旅行で取材した「明装」が第2回帝展に初入選する。1921年(大正10年)美術学校を首席で卒業。卒業制作した「よろこびの曲」は文部省買上げとなるなど早くからその資質を認められる。1924年(大正13年)芥川賞受賞作家の由起しげ子と結婚、三男一女を儲けた。

1925年(大正14年)農商務省の海外実習練習生としてフランスに渡る。ピカソら同世代の画家たちに共感をよせる一方、ルーヴル美術館に頻繁に通いながら、ドミニク・アングルの「グランドオダリスク」といった古典絵画を模写する。こうしてモニュメンタルで古典の静かな香気が漂う画風が確立される。1927年(昭和2年)第20回サロン・ドートンヌに「毛皮の女」が初入選。翌年第21回サロン・ドートンヌにも「横臥裸婦」「赤いソーファの裸婦(白衣を纏う)」が入選する。

1929年(大正4年)経済的な理由で帰国。一時兵庫県芦屋市に居住するが上京して阿佐ヶ谷に居を定める。同年第10回帝展に滞欧作「椅子に寄れる」を出品し、特選となる。翌年第11回帝展にも「二人」が特選となる。1932年昭和7年)東京美術学校講師となる。同年第13回帝展に「榻上二裸婦」を出品し、3度目の特選となる。 1934年(昭和9年)帝展審査員となる[2]

同年、陸軍美術協会に参加[3]。戦時中は陸軍嘱託画家として台湾香港、ビルマ(現・ミャンマー)、中国タイ等に派遣され「バーモウ・ビルマ国家代表像」、「香港に於ける酒井司令官ヤング総督の会見」、「島田戦車部隊スリムの敵陣突破」などの戦争記録画の制作にもあたる(後述)。

戦後は、日展の審査員を務める。1949年(昭和24年)日本美術家連盟の委員長として、作家の立場を守る努力をする。さらに1953年(昭和28年)文芸美術国民健康保険組合を設立しその常務理事を務める。1953年(昭和28年)フランス美術館(現・国立西洋美術館)設置準備委員会委員として美術館設置に尽力する一方、国際造形芸術連盟(IAA)日本国内委員会委員長として、美術家の国際交流と提携に努める。1956年(昭和31年)ヴェネツィア・ビエンナーレの日本代表として渡欧し、イタリアフランス各地で制作する。1957年(昭和32年)帰国。フランス滞在が新鮮な刺激となり、多くの公職を辞して画業に専念する。

1960年(昭和35年)フランス政府より芸術文化勲章オフィシェ章を授与される。この頃正力松太郎三木武吉石橋正二郎等のアトリエでの肖像画の制作のほか千葉浜離宮軽井沢日光京都等の写生旅行にも出かける。1966年勲三等瑞宝章を授与される。1971年(昭和46年)紺綬褒章を授与される。1972年(昭和47年)頃から体調をくずし、静養につとめながら制作。晩年は日本美術家連盟総会で名誉会員に推挙されるが、1976年(昭和51年)糖尿病肺炎を併発し没する。

主な作品

戦争記録画

戦時中に製作された戦争画で、下記作品は、GHQ軍事主義的であるとして他の作家の作品とともに没収された。1970年(昭和45年)、アメリカ政府から無期限貸与の形で返還され東京国立近代美術館に収蔵されている[7][8]

  • 『バーモウ・ビルマ国家代表像』(1943年)第6回新文展出品作
  • 香港に於ける酒井司令官、ヤング総督の会見』(1943-44年)第2回陸軍美術展覧会出品作
  • 島田戦車部隊スリムの敵陣突破』(1944年)戦時特別文展出品作
  • 特攻隊内地基地を進発す(一)』(1944年)

脚注

  1. ^ 作家詳細情報 伊原宇三郎”. 徳島県立近代美術館 (2006年). 2022年9月2日閲覧。
  2. ^ 審査員決まる、新顔は十三人『東京朝日新聞』昭和9年9月6日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p411-412 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  3. ^ 戦争画の名作を目指して『東京朝日新聞』昭和14年4月16日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p787 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  4. ^ 小堀桂一郎監修 所功編著 『名画にみる 國史の歩み』 近代出版社、2000年4月、p.72、ISBN 978-4-907816-00-1
  5. ^ 飯田市美術博物館編集・発行 『田中芳男没後一〇〇年記念特別展 日本の近代化に挑んだ人々 ―田中芳男と南信州の偉人たち―』 2016年、p.50。
  6. ^ 飯田市美術博物館(2016)p.60。
  7. ^ 伊原宇三郎 1894 - 1976 IHARA, Usaburo 作品詳細”. 独立行政法人国立美術館. 2022年9月2日閲覧。
  8. ^ 25年ぶり戦争絵画 報道関係者に公開『朝日新聞』昭和45年(1970年)6月16日夕刊、3版、9面

参考文献

画集・図録

  • 「伊原宇三郎展-生誕百年を記念して-」、1994年、目黒区美術館/徳島県立美術館



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