河竹繁俊とは? わかりやすく解説

かわたけ‐しげとし〔かはたけ‐〕【河竹繁俊】

読み方:かわたけしげとし

[1889〜1967演劇研究家長野生まれ黙阿弥(もくあみ)家の養嗣子坪内逍遥(つぼうちしょうよう)に師事早大演劇博物館館長として活躍。著「歌舞伎史の研究」「日本演劇全史」など。


河竹繁俊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/27 02:36 UTC 版)

河竹 繁俊 かわたけ しげとし
人物情報
別名 市村 繁俊
生誕 (1889-06-09) 1889年6月9日
日本長野県
死没 1967年11月15日(1967-11-15)(78歳没)
出身校 早稲田大学
子供 河竹登志夫(演劇研究者・次男)
学問
研究分野 演劇学
研究機関 早稲田大学
学位 文学博士
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河竹 繁俊(かわたけ しげとし、1889年明治22年)6月9日 - 1967年昭和42年)11月15日)は、日本の演劇学者。位階従四位。学位は文学博士文化功労者。旧姓は市村(いちむら)。

経歴

1889年、長野県下伊那郡山本村(現・飯田市)に市村保三郎の三男として生まれる。旧制飯田中学まで毎日10キロ程徒歩で通学。1911年、早稲田大学英文科卒業。在学中、坪内逍遥文芸協会演劇研究所に入り、俳優、演出助手を務める。

1911年、逍遥の推薦で河竹黙阿弥の娘・糸女の養子となる。1920年、帝国劇場文芸部に所属した後、技芸学校主事を務める。1923年、早稲田大学講師、のち教授。早稲田大学演劇博物館館長を務め、歌舞伎史、比較演劇を中心に演劇史を研究した。1943年、「歌舞伎史の研究」で文学博士号を取得。1948年、日本演劇学会初代会長に就任、逝去まで会長を務めた。1960年、早稲田大学を定年退職。1962年、日本芸術院会員となる。1967年11月15日、老衰のため死去。享年78歳[1][2]。墓所は中野区源通寺。2008年、早大演劇博物館名誉館長の称号を授与された。

受賞・栄典

家族・親族

著書

共著

編集

共編

翻訳

監修

脚注

  1. ^ 「河竹 繁俊氏(日本芸術院会員)」『朝日新聞』1967年11月15日、11面。
  2. ^ 「河竹繁俊氏(かわたけ・しげとし=文化功労者、日本芸術院会員、文博・早大名誉教授)」『読売新聞』1967年11月15日、11面。

参考文献

外部リンク




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