仮の国
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「ルクセンブルクの歴史」の記事における「仮の国」の解説
1813年10月の諸国民戦争でナポレオンに勝利した同盟軍は、1814年5月にルクセンブルクの占領に成功した。評論家ジョセフ・ゲレスによれば、南ネーデルラントの人々は再びハプスブルク家による統治を望み、「神聖ローマ皇帝万歳」と叫んだとされている。しかし列強国は、フランスの解体と封じ込め、そしてフランスから奪い返した領土の分配を考えていた。そのためにウィーン会議が開催されたが、これは各国の利害が衝突し、遅々として進まなかった。ルクセンブルクの立場は低く、ハプスブルク家はルクセンブルクにこだわりを持っておらず、さらにルクセンブルクを含む南ネーデルラントをフランスに対する障壁として用いることをイギリスが強く推していた。 そのため、ハプスブルク家はネーデルラントを手放す代わりにヴェネツィア、ロンバルディアを手に入れ、そして南ネーデルラントと旧ネーデルラント連邦共和国からなるネーデルラント連合王国を形成、オラニエ=ナッサウ家のギヨーム1世(ウィレム1世とも)にゆだねることとなり、ルクセンブルクもその中に取り込まれた。この時、プロイセンがルクセンブルク、リエージュ、ナミュールの各公国の併合を強く望んでいた場合、併合される可能性が存在したが、結局プロイセンは行動を起こさず、ルクセンブルクがプロイセンに併合されることはなかった。 さらにルクセンブルクにとって幸運なことに、ルクセンブルク公位も王位へ統合される可能性があったにもかかわらず、オラニエ=ナッサウ家が飛び地であった小公国を手放す代償の形でルクセンブルクが与えられた。この時、ルクセンブルク公国は大公国へ格上げされ、さらに大オランダ王国との同君連合とされ、さらにオラニエ=ナッサウ家の個人所有地という結果に帰結した。そしてさらに大オランダ王国をフランスへの障壁にすることを考えていたイギリスは大オランダ王国だけでは不十分と考えており、40近くのドイツにおける諸国を集めてドイツ連邦を形成、ルクセンブルクもその中に編入された。ドイツ連邦ではプロイセン、オランダ、ルクセンブルクの各部隊が駐屯することとなっていたが、ギヨーム1世はその権利をプロイセンに譲ったため、ルクセンブルク大公国の首都ルクセンブルク市にプロイセン軍が駐屯、フランスに対する圧力となった。 ドイツ連邦に編入されたルクセンブルクは国民もゲルマン系ではあったが、東部ではドイツ語方言のルクセンブルク語を話し、西部ではフランス語系のワロン語を話すという状況であり、どちらかといえばフランス語を使用する人が過半数という状況であった。そのため、ルクセンブルクが独立を得たのも結局はヨーロッパ列強国の思惑の範囲内であり、ルクセンブルクの人々が得たわけではなかった。そして、ギヨーム1世もルクセンブルク大公国にオランダ王国の憲法などを適用し、実質的にオランダの第18番目の州として扱われ、オランダ王国に取り込まれた。しかし、ルクセンブルクの人々は抗議もせず、さらに所属しているはずのドイツ連邦も問題にしなかった。このことを後にベルギー人の作家で評論家のピエール・ノトンはルクセンブルク大公国が「仮の国」であったと評している。
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