仮の国とは? わかりやすく解説

仮の国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 11:27 UTC 版)

ルクセンブルクの歴史」の記事における「仮の国」の解説

1813年10月諸国民戦争ナポレオン勝利した同盟軍は、1814年5月ルクセンブルク占領成功した評論家ジョセフ・ゲレスによれば南ネーデルラント人々は再びハプスブルク家による統治望み、「神聖ローマ皇帝歳」と叫んだとされている。しかし列強国は、フランス解体封じ込め、そしてフランスから奪い返した領土分配考えていた。そのためにウィーン会議開催されたが、これは各国利害衝突し遅々として進まなかった。ルクセンブルク立場低くハプスブルク家ルクセンブルクこだわり持っておらず、さらにルクセンブルクを含む南ネーデルラントフランス対す障壁として用いることをイギリス強く推していた。 そのため、ハプスブルク家ネーデルラント手放す代わりにヴェネツィアロンバルディア手に入れ、そして南ネーデルラントと旧ネーデルラント連邦共和国からなるネーデルラント連合王国形成オラニエ=ナッサウ家ギヨーム1世ウィレム1世とも)にゆだねることとなり、ルクセンブルクもその中に取り込まれた。この時、プロイセンルクセンブルクリエージュナミュールの各公国併合強く望んでいた場合併合される可能性存在したが、結局プロイセン行動起こさずルクセンブルクプロイセン併合されることはなかった。 さらにルクセンブルクにとって幸運なことに、ルクセンブルク公位も王位へ統合される可能性があったにもかかわらずオラニエ=ナッサウ家飛び地であった公国手放す代償の形でルクセンブルク与えられた。この時、ルクセンブルク公国大公国格上げされ、さらに大オランダ王国との同君連合とされ、さらにオラニエ=ナッサウ家個人所有地という結果帰結した。そしてさらに大オランダ王国フランスへ障壁にすることを考えていたイギリスは大オランダ王国だけでは不十分と考えており、40近くドイツにおける諸国集めてドイツ連邦形成ルクセンブルクもその中に編入された。ドイツ連邦ではプロイセンオランダルクセンブルク各部隊駐屯することとなっていたが、ギヨーム1世はその権利プロイセン譲ったため、ルクセンブルク大公国首都ルクセンブルク市プロイセン軍駐屯フランス対す圧力となったドイツ連邦編入されルクセンブルク国民ゲルマン系ではあったが、東部ではドイツ語方言ルクセンブルク語話し西部ではフランス語系のワロン語を話すという状況であり、どちらかといえばフランス語使用する人が過半数という状況であった。そのため、ルクセンブルク独立得たのも結局はヨーロッパ列強国の思惑範囲内であり、ルクセンブルク人々得たわけではなかった。そして、ギヨーム1世ルクセンブルク大公国オランダ王国憲法などを適用し実質的にオランダの第18番目の州として扱われオランダ王国取り込まれた。しかし、ルクセンブルク人々抗議もせず、さらに所属しているはずのドイツ連邦問題にしなかった。このことを後にベルギー人作家評論家のピエール・ノトンはルクセンブルク大公国が「仮の国」であった評している。

※この「仮の国」の解説は、「ルクセンブルクの歴史」の解説の一部です。
「仮の国」を含む「ルクセンブルクの歴史」の記事については、「ルクセンブルクの歴史」の概要を参照ください。

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